2012年3月31日土曜日

3月31日

春の嵐の中で迎えた、京都大学原子炉実験所の今中哲二さんの「朝の教室」。
お話しをうかがっていて、思い出した言葉があった。
うろ覚えではあるけれど、
……こわがり過ぎることも、こわがらないことも簡単だけれど、
正しくこわがることはむずかしい……というような内容だった。
今中さんのお話は、まさに、この言葉通り。
誰の言葉だったろう? と一日中思い出せず、気になっていたのだが……。
受講されたかたからの、メールにまさに、この言葉あり、
寺田寅彦の言葉であることも教えていただいた。
そうだった、わたしたちは「正しくこわがる」ひとりでありたい。
同時に、「正しく声をあげるひとり」でもありたい。

2012年3月30日金曜日

3月30日

今日は午前中から、NHKの収録。
ひと月分。それを終えてから、
新宿の紀伊国屋に向かう。
サザンシアターでの、沢田研二さんたちの
音楽劇「お嬢さん、お手上げだ」を観劇するため。
紀伊国屋にはちょくちょく行くのだけれど、
このシアターははじめて。

「さようなら原発1000万人アクション」の呼びかけ人であるわたしたちは、
ありがたいことにご招待いただいた。
会場では、署名をするコーナーも設けてくださっている。
鎌田慧さん、澤地久枝さんたちと3時間の音楽劇を堪能!
久しぶりに、ほんとうに久しぶりに、ゆったり、楽しくも熱い時間だった。

終了後、沢田さんにお礼とご挨拶を。
それから近くのホテルで打ち合わせをすませて、帰宅。
明日は朝の京都大学原子炉実験所の今中哲二さんの「朝の教室」。
キャンセル待ちのかたがたもおられる。
荒れ模様の天気になりそうだが。

2012年3月29日木曜日

3月29日

政府もメディアも、福島第一原発2号機の「異変」の心配よりも、、
「増税」のほうが大事なのか。
増税反対派や慎重派(理由は様々であっても)との話し合いを打ち切り、
消費税増税路線をひた走る。
それにしても、消費増税はほんとうに避けられないことなのだろうか?
政府・民主党は、明30日に閣議決定し、今国会に提出するという。
1,000兆円もの借金をつくりながら、なんら節約や倹約をしないで(自らの身を削ることなく)、
またもや消費税で国民に負担を強いる。なんだかなあ、である。

それら「借金」の原因のひとつにもなってきた原発建設について、
再稼働をすすめようとする政府・民主党。なんだかなあ、である。

「北朝鮮にミサイル撤回要求」に霞んだかたちの「核サミット」。
共同声明に「東京電力福島第一原発事故を踏まえ原子力の平和的利用に持続的な努力が必要」があるけれど、
これもまた、なんだかなあ、である。
原爆も原発も「核問題」だ。わたしにとっては、原爆も原発も「テロ」そのものなのに、
彼らは「テロ対策」を話し合ったのだ。
この日の社説に「福島原発の教訓を世界の安全に生かせ」の見出しが出た新聞があったが、
白々しい思いしか浮かばない。
どれもこれも、なんだかなあ、なんて白けているわけにいかない。
「怒れよ! わたし」なのだよ!

2012年3月28日水曜日

3月28日

今朝の東京新聞。
「格納容器内7万2900ミリシーベルト」という大きな見出しの横に、
「6分で人死ぬ量」とある。
この3日間、このブログに書いている福島第一原発2号機のことである。
メルトダウン、炉心溶融した核燃料が原子炉を破壊し、
格納容器にまで溶け落ちている。
最大で毎時7万2900ミリシーベルトの放射線量が計測され、
この値は見出しにもあるように、そこに6分ほどいただけで
人間は100パーセント死亡するという。
ロボットでも長時間の作業は難しいそうだ。
政府は2011年12月に、この苛酷事故は「収束した」と宣言したのだが、
これが原発事故の、リアルタイムの実態であるのだ。

野田首相は、韓国ソウルで開かれた核安全サミットで、
「原子力施設の脆弱性を克服する」と宣言したそうだが、
どうやって克服するのだ。
このサミットでは、原発へのテロについても議論されたが、
原発の存在そのものが、
そこで暮らすものたちへの、「テロ」そのものになっている、
とわたしは考える。
自らの内に、「テロ」を抱えているのだ。

メディアといえば、毎日放送の「たねまきジャーナル」は
クレヨンハウスが4月22日に講演をお願いしている
京都大学原子炉実験所の小出裕章さんが出演している番組でも広く知られている。
今回、クレヨンハウスから『小出裕章さんのおはなし』を刊行するにあたっての
メールでのやりとりを通して、
当然ながら、小出さんとはプライバシーに関しては厳密なるルールのあるかたで、
容易に他者を入れないかただと認識した。
実をいうと、わたしにもこのルールはあるので、気持ちはよくわかる。
それでも、前掲の本の中では、
少年時代や女川原発の反対運動に身を投じた学生時代、
そして原発推進派の教授と論争した時代について触れておられるが。
去年の秋頃の「たねまきジャーナル」だったか、
小出さんは推進派の教授と論争したことについて次のように応えておられた。
福島第一原発のシビアアクシデントに関して、
利害が直接的にかかわるアカデミズムは、「あ、そういうことね」であるのだが、
それ以外のいわゆる主流のアカデミズムもどうして反応が鈍いのか……。
わたしは不思議だった。
その疑問に対して、番組の中で、小出さんは次のようにもおっしゃっている。

……研究者というのは、私がいたころ(学生時代)もそうだし、たぶん今もそうだと
思いますが、
学問というものがものすごく細分化されてしまっていて、
自分のやっているところは何とか守るということをやるのですけれども、全体が見えないのですね。
ですから、自分の領域からちょっと離れてしまうと、もう、全くわけがわからない。
そういう領域で原子力発電の全体像を、もう、殆どの教員が見ることが出来ないという、そういう状態でした……。
この状態は、苛酷事故から1年以上もたった現在でも続いているのではないかと、わたしは推測する。

2012年3月27日火曜日

3月27日

メルトダウンした核燃料が原子炉を破壊し、格納容器まで解け落ちている、
という福島第一原発2号機については昨日書いた。
3メートルあると思っていた水位が、60センチしかなかったというニュースのことを。

不思議なのは、ほとんどのテレビが、
この大きなニュースをスルー気味であることだ。
わたしは昨夜、このニュースをNHKで知ったのだが、
そしてすべてのニュースをチェックしているわけではないので断言はできないが、
多くはAIJのニュースがトップ。
むろん、AIJも酷いものだが、2号機は?
ニュースの優先順位を、「いのち」から考えないメディアはメディアか?

不思議な胸騒ぎの中で、深夜のチャネルサーファーと化す。

2012年3月26日月曜日

3月26日

福島第一原発の2号機が、「なんか変ではないか」……。
ずいぶん前に、そんな内容のことを、このブログで書いたか、
「朝の教室」で発言したか、あるいは他の原稿だったかは忘れたが、
書いたか言った覚えがある。
ずっと気になっていたのだ。

今夜、NHKの21時からのニュースで、
「2号機の格納容器の水位が60センチしかなかった」
という報道があった。
3メートルと思っていたのに、わずか60センチである。
60センチで冷却は充分されているのか。
放射能の飛散は?
不安なことだらけだ。

ある部分、つまんだりして編集してあるのだろうが、
そのことを発表する東電の担当者の口調が気になってならない。
(感情的になる必要はないのだが)どこか他人事のように響くのは、わたしだけだろうか。

こんな中でも、大飯原発の再稼働に向けて、
政府は4月から地元のひとたちへの「説得」に入るという。
地元で暮らす人たちが納得しない限り、再稼働はむろんしてはならない。

しかし、ひとたび事故が起これば、その被害は、地元だけに留まらない。
全く収束していない福島第一原発の「いま」は、
日本に限らず、世界中を心配させている。
地球上に暮らす、すべてのひとの「納得」なくして、再稼働してはならないはずだ。

今日26日未明には、東京電力の稼働原発はゼロ、になった。
稼働ゼロの原発に、おびただしい核廃物が貯まっている。
それら核廃物の危険性は、10万年に及び子どもたちを脅かすのだ。

2012年3月25日日曜日

3月25日

今日は朝から晴れている。
昨日が今日ならよかったのに。
風邪を引いたかたはいなかったろうか。
ちょっと心配だ。

いよいよ、わたしも編集に加わった小出裕章さんの本が
できあがってきた。
わたしたちはやがていなくなる。その時、子どもたちに
遺していきたい思いがある。
それは、自分で考え、自分で選択決定するのが、
「生きる」ということなのだ、ということを、
しっかり言葉で遺したい……。
原発に限らず、あらゆる場面において。
そんな思いで、この本はできあがった。
小学校4年ぐらいの子から自分で読める本にしているが、
むろん大人にも読んでいただけれたらうれしい。

それから、沢田研二さんのCD「3月8日の雲」が
本日からクレヨンハウスに入荷。
原発にNOという、自作の詩を歌った歌も収録されている。
是非、聴いてみてください。
沢田研二さんのようなかたが、反・脱原発について
自分の考えを表現することは決して容易なことではない。
ひとりでも多くのかたに、とわたしは勝手にPR係を。

素敵なことやものを素敵だと言って応援するのは
とても気持ちいい、ことだ。

2012年3月24日土曜日

3月24日

24日は日比谷野外音楽堂で「さようなら原発…」
の集いが。
朝方には上がると天気予報が言っていた雨が
まだ残る13時。
フォークの山本コータローさんの歌で始まり、続いて呼びかけ人や
賛同人、福島の方たちなどのスピーチが。
およそ6000人のかたが集まった。
再稼働STOPを大きなテーマした今日の集会。
大飯原発の再稼働を前に、わたしたちは
もう一度、2011年3月11日に戻り、
やわらかく繋がりたい。
わたしは閉会の言葉だったが、最後は次のような
言葉で締めくくった。

もう一度、2011年3月11日に戻りましょう!
どんなに、安全・安心をうたっても、原発事故は起きたじゃありませんか!    

もう一度、2011年3月11日に戻りましょう!
福島のひとはもちろん、日本中、世界中の人々を、恐怖に陥れたではありませんか。
未來の子どもたちにまで、危険を残してしまったではありませんか!

もう一度、2011年3月11日に戻りましょう!
いまだに、何ひとつ解決していないのです。原子力発電を動かせば動かすほど、
処理のできない放射性廃物が、毎日貯まっていくのです。
せいぜい100年しか生きられない人間には、10万年も生きる放射能を見届けられないのです。

原子力発電は、「原子爆弾となんら変わらない」ということも、忘れてはいけません。
つくっても、持ってもいけないのです。
核軍縮ではなく、全廃棄しかない原子爆弾と同じように、全廃炉しかない原子力発電だということを、
もう一度、2011年3月11日に戻って、心にしっかり刻み、未來の子どもたちに向かって、全廃炉を誓いましょう!
パレードは、東電前を通すコースを。
雨はあがって、青空が。

2012年3月23日金曜日

3月23日

明日土曜日は、日比谷公園での
「さようなら原発1000万アクション」の集会が。
呼びかけ人の鎌田慧さんや、澤地久枝さんも
参加される。もちろん、わたしも!

ご無理のない範囲で、(無理しちゃ、だめだよー)、ご参加を。
7月には、10万人デモも計画されているので、無理はしないこと。

無理をしそうなときは、IMAGINE。
「反・脱原発」がひとり減って、誰が喜ぶかを。

2012年3月22日木曜日

3月22日

昨日の東京新聞の投書欄、「発言」に
次のような発言が掲載されていた。

以前、同じ欄に脱原発のためにできることを教えて、
という投稿があったことに対して、
投書者は次のように応えておられる。

署名もデモ参加も大事だが、
「私は脱原発や自然エネルギー促進に尽力している人や
団体を間接的に応援することも、私たちにできる
反原発活動になるのではないか」と。
投書をされたのは、35歳の女性である。
たとえば、として、彼女は事故直後に
携帯電話をソフトバンクに変え、
預貯金を城南信用金庫に移したそうだ。
「脱原発に関する本を購入すれば、
著者に印税という形で活動費の応援ができます」
素敵な思想であり、姿勢である。

「朝の教室」で講演をいただいた
城南信用金庫の理事長 吉原毅さんは、
この投書をお読みになっておられるだろうか。

2012年3月21日水曜日

3月21日

お彼岸だ。

被災地には、まだ「行方不明」という
悲しい呼称の中に、いとしいひとの存在を
置かなくてはならないかたもおられる。

亡くなったひとは、生きているひとの心の
中で、生き続けるものではあるのだが。

2012年3月20日火曜日

3月20日

今日は一日、秋田県に。

そろそろ軽いものが着たいのだが、風邪を引き込むのはいやで、
冬の、もっさりコートを着ている。
母を見送った後は、少々風邪を引いてもなんてこったあない、と薄着をしていたのだが、
「さようなら原発1000万人アクション」の集まりが24日(土)日比谷公園でもあるし、
その前にもいろいろあるし、で、風邪はひけない。

それでも冷たい風に怒髪なびかせていたら、45歳でコスタリカの大統領になった
オスカル・アリアスの、あの言葉が甦った。
……by fighting for the impossible,
one begins to make it possible……

だったかな? 手元に資料がないので確認できないが。
「不可能」とたたかうことで、ひとはそれを「可能」に変えはじめるのです。
心に繰り返し刻みたい言葉であり、姿勢だ。
経産省の隅っこにある反原発のテント村に踏ん張るひとたちも、同じ思いだろう。

2012年3月19日月曜日

3月19日

新しい月曜日がやってきた。
今朝も新聞三紙かかえて、仕事へ。

東京新聞の一面には、原発の事故で避難し、
しかし福島県内にとどまっている小5年と中2年生への
アンケート、「30年後の福島は」が掲載されていた。
もともとアンケートは共同通信が行ったもので、
30年後、福島県には「どんな未来が待っていますか」
という問いに対する答えである。

小5
★自然あふれる放射能のない福島県(男)
★放射能が少なくなって地もとに帰れる(女)
★放射能のえいきょうで人がいなくなる(男)他
中2
★原発はなくなり、新しいエネルギーが利用されている(男)
★震災前より、かっきのある、福島県になっている(男)

中には「しょうらいボロボロになっている。原発のせいで」という回答もある。

希望的なことを書く子も、悲観的なことを書かざるを得ない子も……。
わたしたちひとりひとりがその年代の時、放射能について
こんなにも意識することは、あっただろうか。わたしは、第5福竜丸を
知っている世代ではあるが。
福島の子は(県内にとどまろうと、遠くに行こうと)、
福島の30年後についても、なによりも自分自身の30年後についても、
こうしてずっと考えていかざるを得ないのだ。「これから、どうなるのだろう」と。
そのことこそ、わたしたち大人は考えなくてはならない。
この絶え間ないストレスを、子どもにいやおうなく背負わせてしまったことを。

風が冷たい月曜日だった。

2012年3月18日日曜日

3月18日

東京を離れる日が続いている。
午前中に東京を発って、夜遅くに
帰京というパターンがほとんどだ。
母を在宅で介護していた頃の癖が
ついてしまったのか、最終ぎりぎりでも帰京したくなる。
それに、多発する地震のもと、
クレヨンハウスも心配で、結局は
帰京してしまうのだ。わたしがいたからと言って、どうにかなる
ものではないのだが。
14日には千葉県東方沖(千葉
北東部・茨城南部で震度5)。
15日には茨城北部(震度3だったか)。
16日は埼玉南部で震度3というように。
いま携帯のニュースを観ていたら、18日午前にも岩手で地震が。
2004年のスマトラ地震(マグニチュード9だった記憶がある)の後も、大きな余震が続いたはずだ。
まったく素人のわたしが考えても、3・11の地震の影響で、もともと岩盤が弱いところに地殻はさらに不安定になっているはずだ。
いまは首都直下が話題になって
いるが、そしてそれが現実になれば目も当てられないことになるだろうが、
まだ収束が見えない福島近辺で
再度地震が起きたら……。
さらに原発があるどこかで起きたらと考えると、どうしていいのかわからなくなる。
現在稼働しているものは2基であってもだ。
 
朝、出がけに時間を確かめるためにつけるテレビ。
その時間はだいたいワイドショーをやっている。
防災グッズは特集しているが、原発と地震についてもっと基本的な特集にこのところ出会ったことはない。
わたしが見逃しているだけかもしれないが。
「それ」と「これ」は別ではないのだが。
地震がこわいなら、まったく単純に原発もこわいはずだ。
昨日の茨城での講演会。
多くのかたがたから、「さようなら原発……の署名しましたよ」とお声をかけていただいた。
 
いつだって日常は、ペシミズムと、それよりはるかに小ぶりな期待という名のオプティミズムの
お手玉の連続なのか。
 

2012年3月17日土曜日

3月17日

土曜日というと、「朝の教室」のくせがついてしまっているが、次回は31日。
京都大学原子炉実験所の今中哲二さんを講師にお迎えする。
今中さんのお母さまが広島で被爆した被曝二世ではあるけれど、
原子力工学を専攻したのはそのせいではなく、高度経済成長の時代に十代を送り、
原子力が日本の将来に大きく貢献するという、あの言い分にのってしまったから、とどこかでおっしゃっていた。このあたりは、同僚の小出裕章さんと同じだ。
学生時代にすでに原子力開発の、なんとはなしの胡散くささには気づき、
京大に就職されてからも、一貫して"原発を止めることに有用な研究"を続けてこられた。
今中さんの「朝の教室」も現在、キャセル待ちをされているかたが大勢おられて、ご迷惑をおかけしている。
 
続いて4月14日は、加療中であるところを押して、弁護士の日隅一雄さんが講師を。
22日は、小出裕章さんの「朝の教室」ではなく、「14時からの教室」が青学講堂で。
 
今日は一日、茨城県に。
 

2012年3月16日金曜日

3月16日

16日
昨日は講演がふたつあり、帰宅したら、ぐったり。
ブログを書かずに、寝てしまった。
反省。
そして今日、3月16日。
午後から東京を離れている。
昨夜、爆睡したせいか、とても身体が軽い。
体重の話ではない。
身体が軽いと、気持ちも少しだけ軽くなる。
現実のこの社会を考えると、失望のみが多かりき、気持ちも晴れないのだが。
 
アメリカにリナ・ホーン(レナという表記もある)という女性ジャズボーカリストがいた。映画でも活躍した凛々しくもうつくしい女性だ。
彼女のことは、ブログに書いた?
めっきり記憶力減退。
もし書いていたら、失礼。
とにかく大好きな、ボーカルストだ。

アフリカ系アメリカ人である彼女は、10代のときから、あのコットンクラブ(コッポラが映画化した)で、「僅かな布きれを身にまとっただけ」のダンサーとして働いた。
その後、ハリウッドに進出するが、「夢の都・聖林」でも
肌の色ゆえに、スタジオの食堂に入ることを拒否されたり、
幾多の差別を体験してきた。
その彼女に冠せられたニックネームが「ICE BEAUTY」。
笑うと、白人社会に迎合しているようでいやだった、だから笑わなかった、という彼女であるが、
それさえもハリウッドでは商品化された。
第二次世界戦争の頃は慰問先の会場で、自分と同じような肌の色の兵士たちが入場を断られたり、立ったままみることを強制されたりしていることに抗議。ステージをおりてしまったこともあったそうだ。
彼女には白人の祖先もいて、
「アフリカ系よりは、肌の色が浅いセピア色」であるために、同じアフリカ系のひとたちからも距離をとられた日々もあった。
あの、公民権運動の先頭に立ったこともある。

亡くなって2年。
今夜は彼女の『ストーミー・ウェザー」を聴きながら原稿を書くことにする。
 

2012年3月14日水曜日

3月14日

韓国釜山にある原子力発電所で、電源喪失の事故があったことが、ひと月たってから判明した。
どこの国でも、原発事故の全容は「ただちには」発表しないものであるらしい。
だからこそ風評被害が起きるのだが。

1年と3日がたった、去年の3月11日から。
強引に『収束』させられた第一原発の2号基は? 4号基は、いま?
3月8日付の毎日新聞朝刊、「ザ・特集」には、
沢田研二さんのインタビュー記事が掲載されていた。
いま、何を考えていますか? 
と問う記者・太田亜利佐さん(いい視点の、いい文章をいつも書かれる記者である)に、
沢田研二さんはひとつひとつ丁寧に、しかし気負いのない言葉で答えておられた。

憲法九条を守ろうとの思いを込めた『我が窮状』もそうだったが、
こういったメッセージソングも自分で作詞され、うたう近年の沢田研二さんである。
3月11日に発売されたばかりのCD『3月8日の雲』には、
この国はいったい何を護るのか、バイバイ原発!と繰り返す曲も収録されているそうだ。
(明日、公演の合間に絶対、買いに行く!)

インタビューの中で、彼は次のように答えておられる。
「この年齢になったから、ちゃんと言っていかないと恥ずかしいよね。集会やデモの先頭に立って、ではないけれど」。

太田記者はこのロングインタビューを次のように締めている。
「還暦を過ぎても、タオルを巻いていても、この人はカッコいい。多分、若い頃よりも」と。
現在、新宿紀伊国屋ホールで上演されている『お嬢さんお手上げだ』の稽古場を訪ねてのインタビューである。
タオルとは稽古場で首に巻いていたものだ。
年を重ねれば重ねるほど、自由になっていきたい、とわたしたちは心から願う。
沢田研二さんは,それに成功した、見事なおひとりであるだろう。
京都大学原子炉実験所の小出裕章さんは、沢田さんの『朝焼けへの道』を
上野不忍の池の反原発の集会で、大勢のひとたちとうたったことがあるとおっしゃっていた記憶がある。

すでにご案内したように、小出裕章さんの講演会を4月22日に開催する。
今日午後は、その会場の下見のために、青山学院講堂に行ってきた。
クレヨンハウスからすぐ近くだ。青学には時々行くが、講堂ははじめて。
広ーい。ミサにも使われるようで、重厚!
すでに大勢のかたに予約のお申し込みをいただいているが、会場のキャパは1700人!
青山通りから講堂への道程は? 受付のテーブルは? 照明は? 音声は? スクリーンの高さは? 
と、あれこれ難しい(わたしにとっては)レクチャーを受けたり、準備しなければならないことが。 

青学からクレヨンハウスに戻ったら、3月26日刊行の、
子どもから大人まで、原発と放射能を考える副読本
『原発に反対しながら研究をつづける  小出裕章さんのおはなし』
(小出裕章・監修、野村保子・著)の見本がOH!一冊だけ届いていた。

わたしたちはやがていなくなる。
そのとき、福島第一原発の苛酷事故について、
子どもにも理解できる言葉で事実をありのまま遺しておきたい。
そして、「放射能と共にあるこの社会」で生きていくために何が必要なのかも、
しっかり次世代やそのまた次の世代に遺しておこう……。
そんな思いで、ほぼ1年がかりでつくりあげた本だ。
きっかけは去年の4月、大阪十三で小出さんの講演をうかがったことだった。
小学校5年ぐらいから自分で読める本であると同時に、
大人向けの本を読んだけどなんだか難しくって、と頭を抱える大人にも読んでいただきたい本である。

表紙の小出さんの写真の吹き出しには、小出さんご自身からのメッセージが。
「科学者として みなさんに伝えたいことを
この本にこめました。
本当に大切なものはなんなのか?
自分で考え、自分で決める「ひと」になってください。
わたしもまた、自分で考えながら歩きます」と。

2012年3月13日火曜日

3月13日

2011年3月11日から、1年と2日がたった。
これから徐々に、そしてある時から急速に
原発のニュースは減っていくだろう。
ニュースにならなくては、
ひとびとの意識もまたそこから遠ざかる。
特に、福島から遠く離れた場所で暮らすひとびとは。

3月11日、東京を離れていて、
テレビでどんな番組が放映されたかは
新聞のラテ欄で確認するしかなかった。
その番組が醸し出す、ある「空気」のようなものは予測できるのだが。

クレヨンハウス「朝の教室」にいつも参加くださる女性から
次のようなメールをいただいた。ご紹介させていただく。


「あれから1年」 テレビの特番は
東電と国の責任を追及して怒る姿勢は、タブー?
ところどころ、ほのめかす局はあったけれど。
ほんのわずかな収穫

その1 小澤征爾指揮の水戸室内楽団と宮田大の共演ドキュメントと演奏の番組で、
小澤征爾さんが、合唱団・城の音の発表会の舞台で、
次のように明確に発言しておられたこと。
「広島、長崎と二つも。なのに、原発なんて!! 
みんなで要らないと言いましょう」と。

その2 古館一郎さんが、放送の最後に言っていた言葉。
この特集番組を終えて後悔していることが二つある。
ひとつは、薬殺されて、穴に遺棄されている牛たちの姿を、
関係者を何とか説得して放送すべきだったこと。
もうひとつは、原発の総電源喪失が、津波ではなく、地震だけの段階で既に生じていた、
という事実を追及しきれなかったこと。 
原発再稼働は疑問だ。これから先ずっと、自分は追及を続けて行く。
もし、圧力がかかっても、出来なくなるまで、取り上げ続けるつもりだ。

メールをくださったかたは、次のようにしめておられる。


地下には清らかな水脈が流れていることを信じています。
その水脈は絶えることなく流れ、花さき山の花にも注いでいます。
@love

この後は落合の意見。

わたしもそう信じたい。
ほかにも特筆すべき番組はあったかもしれない。
間隙を縫って、言葉にした発言者もいたかもしれない。
「NO」と力強く声をあげる(やばい場合は、小声でも裏声でもいい)ことと
踏ん張っているメディアやひとたちに「YES」のエールを送ることも、
わたしたちにとって大事な「参加」の方法だと考える。

2012年3月12日月曜日

3月12日

昨日の続きで、詩人長田弘さんの『詩ふたつ』を
移動中の車の中で読み返している。
クリムトの画といえば、女性のあの絵がすぐに浮かぶが、
この詩集は、長田さんのリクエストで、植物画だけを集めている。
わたしは知らなかった、クリムトの、もうひとつの世界である。

おさめられたふたつの詩の中のひとつ
『花を持って、会いにゆく』は次のように始まる。

春の日、あなたに会いにゆく。
あなたは、なくなった人である。
どこにもいない人である。

どこにもいない人に会いにゆく。
きれいな水と、
きれいな花を、手に持って。

どこにもいない?
違うと、なくなった人は言う。
どこにもいないのではない・

どこにもゆかないのだ。
いつも、ここにいる。
歩くことは、しなくなった。

歩くことをやめて、
はじめて知ったことがある。
歩くことは、ここではないどこかへ、

遠いどこかへ、遠くへ、遠くへ、
どんどんゆくことだと、そう思っていた。
そうでないということに気づいたのは、
死んでからだった。もう、
どこにもゆかないし、
どんな遠くへもゆくことはない。

そうと知ったときに、
じぶんの、いま、いる、
ここが、じぶんのゆきついた、

いちばん遠い場所であることに気づいた。
この世からいちばん遠い場所が、
ほんとうは、この世に

いちばん近い場所だということに。
生きるとは、年をとるということだ。
死んだら、年をとらないのだ。

十歳で死んだ
人生の最初の友人は、
いまでも十歳のままだ。

病いに苦しんで
なくなった母は、
死んで、また元気になった。

死ではなく、その人が
じぶんのなかにのこしていった
たしかな記憶を、わたしは信じる

……まだまだ続く詩ではあるが、特に
上掲の最後の3行を、わたしは
いま抱きしめている。

3月11日

今日は一日東京を離れていた。
いろいろな集会が各地で行われるのでどれにも参加したかったが、
ずっと以前から決まっている東海地方の講演だった。

14時46分。会場では黙祷。
同じ時間、クレヨンハウスでも、
お客様に14時46分であることをスタッフがお報せをして
それぞれの心の中で、手を合わせていただいた。

東海地方での講演会でも黙祷の後がわたしの話だった。
この1年間について振り返り
会場のかたがたと、銘々それぞれのやりかたで、
心を被災地へ、そして被災地のかたがたへ、と。
涙を浮かべる受講生のかたも多く、
わたしたちは「あれから1年」で忘れてはならないのだ、と心に誓う。

去年の3月11日。
どこで何をしていたかを自分の言葉にできるひとは、
苦闘しながらもいまここに生きのびることができたかたがただ。
亡くなったかたは、生きのびた誰かの心の中に
その存在を、その人生を、その記憶を深く深く刻む。

詩人長田弘さんが、最愛のおつれあいを見送った後に
クレヨンハウスから刊行させていただいた
『詩ふたつ』(クリムトとのコラボの詩画集)の中の後書きで次のように記しておられた。

……亡くなった人が後に遺してゆくのは、その人の
生きられなかった時間であり、その死者の生きられなかった時間を、
ここに在るじぶんがこうしていま生きているのだ……と。

復興のかけ声に、まだまだついていけないひとにも、
この祈りが届くように、と。

2012年3月10日土曜日

3月10日

東京にも雪がちらついた「朝の教室」
今日の講師は、ジャーナリストの斎藤貴男さんを
お迎えした。
「より刺激的な言葉」に慣れてしまった、あるいは
慣らされた、この一年間のわたしたちだったが、
静かに深く「語り、聴く」ことの意味をも示唆された1時間30分でも
あった。
この混迷の時代と社会を「品性」を失わずに
生きることの意味をも。

「福島の子どもたちからの手紙」原画展。
クレヨンハウス東京で開催中。
ちょっと立ち止まって、それぞれの子どもの声を
「聴いて」ください。

2012年3月9日金曜日

3月9日

冷たい雨が降り続いた金曜日。
角の向こうから顔を見せていた春が、また少し遠のいたような。
「朝の教室」にいつも参加してくれる知人に教えられた、福島の彫刻家・安藤栄作さん。
このブログでも紹介させていただいたが、安藤さんの東京銀座での個展をお訪ねしたのは今週はじめのことだった。あの午後も雨だった。

ギャルリー志門で観た安藤さんの作品、ドロ―イングの中で
「樹」というタイトル(だったと思うが、記憶は定かではない)作品が
ずっと気になっている。
もう一度見たいのだが、そして今週は東京駅を中心にどこかに向かったり
帰ってきたりしているから銀座は目の鼻の先の近さだが、まだ果たせていない。
今週中に願いながら、もうすでに週末。

今週のはじめ、短い時間だったが、安藤さんご自身とおつれあいに
お目にかかることができた。
家屋も作品もすべて流され、それに続く原発暴走で、福島を離れざるを得なかったご一家だが、次のようにもおっしゃっていた。
「いま涙がでるのは、この一年の間、本当に多くのかたからいただいた、お心遣いとやさしさを思うときだけです。ありがとう、と何度も申し上げたいかたがたのことを考えるときだけ、涙がでます」
 
このところ、テレビなどを中心に首都圏直下地震の特集が。
備えることもむろん大事だが、各地の原発と直下地震を結びつけてテーマとした特集にはまだ出会えていない。どこで起きても不思議はない大きな地震。まずは一刻も早い廃炉が必要だ。

明日の「朝の教室」の講師は、フリージャーナリストの斉藤貴夫さん。
ジャーナリズムのありかたについても、これでいいのか!と思わされたこの1年。
週刊誌でも他のメディアでも、執筆陣に斉藤さんのお名前を見つけると、それだけで安心できる。いま、得難いジャーナリストのおひとりだ。
今夜はわが家にある斉藤さんの著作を読み返す。活字の中に浸っているときだけ、不思議な安心感を覚える。

2012年3月7日水曜日

3月7日

きょうも暖かな一日だった。
被災地は? と去年のあの日から、それぞれの天気や気温を、
気がつけば毎日チェックしているわたしがいる。
それでどうなるものでもないのだが、気になって仕方がない。

3月11日、九州でキャンドルナイトを企画する若い女性であり母親であるひとと、
少し前電話で話をしたばかりだ。
「3・11以降の子育て」(小社刊)の巻頭に書いたメッセージを、当日会場で、というお話だった。
「ときどき、どうにもならないほど元気が戻らない時があるよね」
と互いに電話を中にうなずき合った。
こんな風に考えているひとたちが大勢いるのに……。
いまもって原発再稼働を考えるひとたちが一方にいる。

福島の子どもたちの手紙や絵を集めた一冊『福島の子どもたちからの手紙』(朝日新聞出版)の作品展が、
3月10日~24日まで、クレヨンハウス東京店で開かれる。
お気に入りのメモ帳に書いた子。
原稿用紙のますめをひとつひとつ埋めていった子。
本とはまた違う、ひとりひとりの子どもの「声」にぜひ、耳を澄ませ、ともに考えるひとときを。

「ほうしゃのうっていつなくなるの?」
わたしたち大人は、この声にどう答えるのか。

2012年3月6日火曜日

3月6日

東京は久しぶりに、暖かな一日だった。
春の花がいっせいに咲き出すのではないかと思われる一日。
けれど、気持ちは相変わらず晴れないまま。

友人のジャーナリストから以下のメールが届いた。

福島に来ています。
ある人が教えてくれた県立図書館と県立美術館の間にある公園の中の
素敵なカフェで昼食を取りましたが、
その傍らで工事業者が盛んに芝生と土を掘り返してはトラックに積んでいます。
食事後、現場監督らしい人に声を掛けました。

僕「何の工事ですか?」
監「芝生の張り替え」
僕「放射能の除去のための?」
監「そう、市内のあちこちでやっているヤツと同じ」
僕「作業員の方はマスクさえしていませんね?」
監「マスクなんかしたら眼鏡が曇ってやってらんねえ」
僕「でも健康のためのギアですからした方がいいと思いますが・・・」
監「あのねえ、そんな大した線量じゃないの。大したことないの」
僕「そんなに線量低いなら、やる必要ないじゃないですか?」
監「そんなこと、国と県が決めたことだから・・・
  こんなことやるの最初だけ。やってますよ、って見せるためにやってんだよ」
僕「除染に効果はあると思いますか?」
監「この裏山見なよ。この工事のあとも雪どけでここへ流れてくるんだよ。
  山ごとやれないだろ????」

今週の日曜で、一年を迎える東日本大震災。
福島の現実は無念にも非情にも、変わってはいない。
「あれから1年」の「儀式」が終わったら、どうなるのか。
何度も書いているが、「忘れさせる装置」に自らを明け渡してはならない、と再確認する。

2012年3月5日月曜日

3月5日

あちこち、行ったり来たり日々が続き、
今日が何日なのか、わからなくなる瞬間がある。

今日もわが仕事部屋の机の上には
山のような未決の資料やぺーパーが積み重なり続けていることだろう。
たぶん椅子の上までも。

ここ数か月、ときにわたしは編集者に変身する。
誰かの果敢でデリケートな活動を知ると、このかたに文章を書いていただきたいな、
といったふうに。
「朝の教室」への講師のお願いやブクレットは、そんな風にすすむ。
もちろん目指すは、原発のない社会であり時代である。

今週の日曜日が3月11日、一年目にあたる。
どこでなにをしていても、わたしたちはさらに心に深く刻みつけたい。
「あの日」から、何をどう変えたい自分になったのか、を。
なんでもそうなのだが、すべての「改革」や「革命」は「ひとりから」はじまるのだ。
そして、わたしたちそれぞれが、その当事者である「ひとり」なのだと考える。

母の遺影の傍らの花が萎れていた。
今夜は花屋さんに立ち寄ろう。

3月4日

名古屋にいる。
今日は名古屋市職員のかたがた向けに講演が。
みな、熱い。
なんとか社会と時代を拓いていこうという意識がとても高い。
会場に、クレヨンハウス「夏の学校」に参加されている女性のお顔も。
その彼女から、隣に座っておられた80代の女性が
「むかし体験した戦争と同じなんですよね。いまは放射能との戦争なのかもしれない……」
とおっしゃっていたことをうかがう。
白髪の、とても素敵なかたがおられることには話をしている間も気づいていたのだが。

2012年3月3日土曜日

3月3日

関西での講演が続いている。
旅先でノートパソコンを開くことが多い。
今朝は、「朝の教室」に毎回参加されている知り合いから、
以下のメールが届いていた。
是非、お読みいただきたいので、ご紹介する。
(収録の関係から、改行させていただいています)


★彫刻家の安藤栄作さんが東京銀座で個展をされます。
お時間があれば、ぜひ足を運んで、ご覧ください。
(安藤さんの「3・11を超える作家たちへ」も、お読みください。
私は昨年10月に読ませていただき、泣きました。)

3月5日(月)~17日(土) 東京銀座のギャルリー志門で個展をします。
お近くにお出での方覗いてみてください。
今回は個展では初めてのドローイングを中心にした展覧会です。
彫刻も数点展示します。
世界の一体感、大気に満ちる宇宙の生命エネルギーがテーマです。
震災以前からその傾向でしたが、震災以後よりいっそうその意識が強くなりました。
個展に合わせてA5判のドローイングノートを作りました。
5点のドローイングとそれに添えたメッセージが書かれています。
私は初日と最終日の14時頃から在廊いたします。
その他の予定はまだ未定です。
楽しいドローイングたちだと思います。
年度末のお忙しい時ですが、よろしかったら足を運んでいただき、
会場で宇宙の生命エネルギーを感じて楽しんでいただけたら幸せにおもいます。


3・11を超える作家たちへ
大自然の中で彫刻を作って生きていきたいと福島県いわき市に移住したのが20年前。
15年間を山で暮らし、5年前からは海沿いの小さな町に住んでいた。
我が家は夫婦そろって彫刻家のため、ご多分に漏れずもう長い間経済的に大変な生活を送ってきた。
自分たちの存在のしかたと今の社会システムが噛み合わず、その歪みをたくさん受けてきた。
精一杯仕事をしても見返りはほんのごくわずか、
使ったエネルギーのほとんどは宇宙の何処かへこぼれ落ちているのではないかと思っていた。
2010年には差押えも受けて、その生活に限界が近付いていた。

大地震の起こる10日ほど前、お茶を飲みながら夫婦でこんな話をしていた。
「もし、全てが無くなるとして、1つだけ残したいものって何かある?」
「1つだけか・・・浩子は?」
「そうね、家族のアルバムかな」
「俺はアルバムもいらないな」
その頃私は家にある彫刻をみんな海岸に持って行って焼いて大地に還すプロジェクトを考えていた。
社会システムとの歪みで溜め込んだ歴史を一度リセットしたいと思っていた。

3月11日、その日久しぶりに高校生の娘も連れ立って家族で街に繰り出した。
友人の個展を観た後、近くのショッピングセンターの2階で店を冷やかしながら歩いていた。
私達の2時46分はその時だった。
その日の夕方、海岸から15mの所にあった自宅は家財や道具、たくさんの作品達もろとも津波と火災で無くなってしまった。
空き地に止めた車の中で積んであった搬入用の毛布にくるまって一夜を明かした。
翌日、食料やガソリンの調達をしながら避難所の情報を得るためにカーナビのテレビを見ていると、突然原発が爆発した。
直後、私達はその場に一緒にいたごく少数の友人達と「必ずまた生きて会おう」と約束をし、
かみさんの実家がある新潟に向けて出発した。

自宅を確認しに戻れたのはそれから3週間後のことだった。
東京で大学生活を送る長男をいわき駅で拾い、家族4人で現場に向かった。
大好きだった海沿いの町はまるで爆撃の後のようだった。
焼けた臭いと吹き抜ける放射能混じりの北風に町から命のときめきが消えていた。
流失した自宅の前で呆然としていると、娘が小さな箱を見つけて持ってきた。
開けてみると中から小さなお人形と着せ替え用の洋服が出てきた。
それは娘が幼かった時、かみさんが彼女に作ってあげた木彫りのお人形だった。
泥ひとつ付いていないそのお人形は何事もなかったかのように微笑んでいた。
人々の心が繋がり織りあがった海沿いの小さな町。
今は瓦礫の平原となったその町を以前の記憶を頼りに家族4人で歩いた。
一通り町を回り、そろそろ帰ろうかという時、瓦礫の上に見覚えのあるものを見つけた。
なんとそれは息子が小さかった頃、私が彼に作ってあげた木彫りの車の玩具だった。
その頃家族で乗っていた小さなワンボックスカーがモデルで、ミニカーでは売っていなかったものを手作りしたのだった。
小さな車の玩具は私たちが帰る前に「そろそろ帰るのかい」と、ひょっこり挨拶しに出てきたように見えた。
不思議な感覚だった。
仕事でがつがつ作った大小数百体はあったであろう彫刻達が破壊され無くなり、
子供たちに作ってあげた小さくか弱いお人形や玩具が目の前に残っていた。
振り返ると瓦礫の平原の中に地元の人が大切にしてきた小さなお社がなぜか無傷で立っていた。
存在する本当の力とは何なのだろう。
それはこの先の世界をどういう心で、どういう波動に身を置き生きていけばいいのかというメッセージのように思えた。
結局私達は何も拾わず、全てそのままに大地にお花とお線香をたむけて帰路に着くことにした。

その後2か月近く、本当にたくさんの方の愛とご支援の中、避難先を転々としながら制作や発表をこなし
5月の末に奈良県の明日香村になんとか着地することになる。
この間の事を話し始めると、それだけで原稿用紙数十枚の報告書になってしまうので、
ここでは触れないでおくが、私のこれまでの人生でこれほど「ありがとう」という言葉をたくさん口に出した日々はなかった。
そしてその言葉のおかげで自分の魂が次第にきれいになっていくのも感じていた。

明日香に避難移住し、ほんの少し日常が回り始めた頃、かみさんがつぶやいた。
「子供達に幼かった頃の写真くらい残してあげたかったな」
それから間もなくして小さな小包が届くことになる。
いわき市にボランティアで入っている東京の方からで、久之浜でアルバムを見つけ、
無断で持ち帰りクリーニングをしたのだという。
写真の中に私の名前を見つけ、友人とネットで調べまくり送ってきたのだ。
包みを開けると、そこには津波でボロボロになった写真たちがクリーニングされ丁寧にビニールに入れられ入っていた。
どの写真も子供たちが幼かった頃のものばかり。いったい天はどこで聞き耳を立てているのだろう。
震災前、勝ち負けの生き残りの世界で分断されていた人々の心が、あの日を境に何かを想い出したように繋がり始めている。
メッセージはそれぞれの立ち位置の人々の手をバトンのように渡り、
宇宙を回って必要としているところへ必要としている時に届けられている。

さて、私達アーティストには今何ができるのだろう。
あらゆるものが経済というプールに浸かり、生きることが勝ち負けのゲームのように扱われてきた近年。
アートの世界も素直にその影響を受け振舞ってきた。
一部のアーティストはそのプールで水を得た魚のように泳ぎ回り、
また一部のアーティストはその水が合わず、生気を失い居場所を求めて喘いできた。
3・11というウエイクアップコール。
想像を絶する破壊と感情の揺さぶりの中、私たちは何に気付き何を想い出そうとしているのだろう。
もはやアートゲームの波動では時代や人々の魂を支えることはできないだろう。
すでにプールにはひびが入り、その外に広がる大海から海水が流れ込んできている。
あの日以来多くの人が遠くから想いを寄せ、また直接被災地に入り活動を続けている。
それはヒラヒラと変化する社会の流れにあって、
せめて自分の人生の中で1つでも確かなものに触れたいという自分自身へのアクションだ。
彫刻家の佐藤忠良先生からシベリア抑留の話をお聞きしたことがある。
食べ物がない中、生き残った人に共通のことがあったという。
それは屈強な体ではなく、詩や文章を書いたり、絵や工作をしたり、歌を唄ったり、
何か自分でできることを持っていた人たちだった。
アウシュビッツの記述にも似たようなものがある。
出所の日を指折り数えていた人はその日が来て出所できないと翌日から次々と亡くなっていった。
そんな中、創造的な行為を持っていた人はしぶとく生き残ったという。
人間という存在を支えている最も中心にあるエネルギーとは結局内なる魂の光なのかもしれない。

変化は始まったばかりだ。
まだまだ大きな災害も続くかもしれない。
また、私たちが知らなかった歴史や科学の真相が明かされ、戸惑いと混乱の社会に身を置くこともあるかもしれない。
そんな時アーティスト達はその直観力とイメージ力、そして強じんなデッサン力で歴史や空間の全体像を見極め、
人の存在の骨格となるメッセージをこれでもかというくらい世界に贈り出してほしい。

安藤栄作 彫刻家

2012年3月2日金曜日

3月2日

2日目の旅先の夜。
昨日は神戸だった。

去年の3月11日。15時過ぎに乗ったタクシー。
えらいこっちゃ、えらいこっちゃ、とカーラジオを聴きながら、
震える声で呟いていた、初老の運転手さん。
わたし自身も、車内に流れるニュースからは、
とてつもないことが起きた、
ということぐらいしかわからなかった。
とてつもない地震らしいということぐらいしか。
えらいこっちゃ、と繰り返していた運転手さんさんはけれど、
車が新神戸の駅に着いたときには、
はっきりとした口調でおっしゃった。
「あたしら、阪神淡路大震災のとき,日本中のひとたちから,
世界中の人たちからも,たくさんの心をいただいたのだから,
今度はあたしらがお返しする番です」
去年の3 月11日以降、わたしたちは、
まっとうに生きる人の、
まっとうな感覚と想いと共感に支えられて来たような。

間もなく、1年。
「生きていてくれて、ありがとう」。
クレヨンハウスの店頭に置いたダンボールのポストに、
被災されたかたがたへの、
そんなメッセージをのこしてくれた、あなた。
わたしからも、ありがとう。

「あれから1年」の特集の時期が過ぎたら、
ひと区切りではなく、ここから再びの一歩を、
わたしたちは注意深く、かつ果敢にふみだしたい。
福島でもまだなにも収束していないのだから。

2012年3月1日木曜日

3月1日

新幹線が京都を過ぎたあたりから,ちょっと息苦しくなった。
去年の三月十一日の今日と同じ頃、
京都,新大阪,そして新神戸で降りたのだ。
そうして,介護について話をしている最中に
軽い眩暈のようなものを感じたのだ。あの時間に。
あの日から始まった日々は,今までのどんな日々とも違っていた。
何ひとつ、完全に復興したものはなく,
なにひとつ収束したものはなく。
そうして一年になろうとしている。

確実に,大きな地震はくるだろう。
二基しか現在は稼動していないとはいえ、
私たちはこの地震大国に五十四基の原発を持ってしまっているのだ。
即刻,廃炉にするしかない。
そうしたところで、何十世代にもわたって、
核のゴミのお守りをしなければならないのだが。
とにかく、再稼働をさせてはならない。
そこからはじめるしかないのだ、とあらためて。
帰京できずに、不安のうちにまんじりともせず夜明を待った,
あの夜を思う。
ふたたび繰り返してはならないと。