2012年9月28日金曜日

9月28日

いろいろなことが気になってしかたがない。
「いろいろ」というけれど、根っこにあるのはひとつ。
「いのち」を、生きる権利を侵害するものだ。
言うまでもなく、特に福島のそれぞれの子どもたちの「いま」と「これから」。

子ども時代に、鼻血をだしたことはあった。
遊んでいる最中に塀にぶつかったり、
チャンバラをして勢い余って、棒で鼻をつっついてしまったり。
そんな時、鼻紙を丸めて棒状にして、鼻の穴につっこんで遊びを続けた。
なかなか止まらない時は「仰向けになっていなさい」と大人に言われた。

……子どもが鼻血をだすたびに、はらはらしています。
絶えず「もしや」という思いがあり、この1年半、正直心が休まった日はありません。
このまま幸い、健康な日々を送ったとしても、
わたしたち親は、子どもの、どんな小さない体調の変化にも頭をくらくらさせ続けるのです。

福島を出ていった子どもや、その親だって、同じでしょう。
この事実ひとつをとっても、わたしは許すことができないのです。
原発を、それを推進したひとたちを、国を。
もう一度、もう一度、3・11以前に戻りたい。
玩具を散らかして片付けない子に「いい加減にしなさい」と怒った日々。
家族で鍋を囲んだ日々。
あの頃は、子どもの鼻血に、こんなにも心を乱されることはなかったのです……。

明日は「朝の教室」。講師は金子 勝さん。
すでにキャンセル待ちの状態だが、是非、福島の彼女の思いも共有したい。

2012年9月27日木曜日

9月27日

福島では、原発の過酷事故のあと、郷里を離れた人々に帰村を促す流れがさらに強くなった。
誰もが自分が生まれ育ったところで、家族や隣人との歴史を刻んだところで、暮らし続けたいという思いがある。
庭石のひとつにも、山を背に風の思うままに揺れるコスモスにも、早くなった夕暮れ時の風景にも、かけがえのない記憶がある。それらと心の奥で柔らかくつながることによって、やすらかに今日を明日につないでいくことが容易になるのだ。
ご高齢のかたは特に、そんな思いが強いだろう。
しかし、地域によって差はあるかもしれないが、子どもたちは「そこ」にいていいのだろうか。すでに健康被害の予兆が見られる子どもたちはいる。 
国や政治が動かないなら、わたしたち市民が動くしかないのだが。
すっかり暮れた9月の空を見上げながら、この国を動かす方法を考えている。
こんな国をつくってきてしまった、ひとりの大人の責任として。
シコンノボタンが、たくさんの蕾をつけている。その中の幾つかが、深い紫の花を今日、ほどいた。

2012年9月24日月曜日

9月24日

今朝の東京新聞に12版に、選挙の供託金についての記事が掲載されている。
以前から考えていたことだけれど、衆院小選挙区だと300万円、
比例代表だと600万円と世界一高いのだ。

もともとは1925年の普通選挙法の制定に始まったというが、
当初の供託金は当時の金額で2000円。公務員の初年俸の約2倍に当たる金額で、
現在の価値に換算すると105万円相当に当たるという。
べらぼうに高いこの供託金は、当時「無産政党」と言われていた社会主義政党が、
国政に進出することを防ぐのが目的であったようだ。
間もなくあるだろう次の選挙で、
脱原発を訴え立候補しようとしているひとたちにとって、この金額は高すぎる。

米国、フランス、ドイツ、イタリア等、多くの欧州諸国には、この供託金制度は存在しないそうだし、
英国は6万2000円、カナダ8万円、韓国は105万円だという。
「現職議員は新人候補者を制限する施策に反対する理由はないからだ」
という識者のコメントも掲載されているが、確かにそうだ。
記事によると、自民党は2008年に供託金引下げの改正案を提出しているそうだが、
これも、当時の民主党が勢いを増す中で、野党の候補者が立候補しやすくすることで、
民主の勢力を分散する目的であったと、記事は説明している。
この高い供託金制度を変えない限り、
一般の市民はいかに志があっても、出馬できない現実がある。

2012年9月23日日曜日

9月23日

今日も一日中、バタバタと。
以下、お報せがあります。

 主催:バイバイ大間原発はこだてウォーク
連絡先:NPO南北海道自然エネルギープロジェクト TEL:080-5590-41178
~大間原発建設容認発言を受けての
道南緊急抗議アクション~
*大間町の対岸に住む私たちの声を世界にどどけよう!
9月30日(日)
15:00~16:30
千代台公園 集合
(コース:千代台公園15:30 → 本町交差点左折 →三井生命ビル(梁川町)左折 → 千代台公園 解散)

2012年9月21日金曜日

9月21日

結局、民衆党は脱原発などやる気はなかったのだ。
2030年も換骨奪胎! 閣議決定もなし、という。
次の衆院選挙で、自民と民主が多数を占めれば、
原発はそのまま推進され、再稼働も次々に、となるのか。
憲法改悪も、充分にあり得る顔ぶれだ。
デモも抗議行動も大事だし、続けなければならないが、
その先に見える政治の風景は、おそろしいものだ。

こうしている間にも、福島では作業員が被ばくを続け、
子どもたちに対しても、誰が「大丈夫」と保障するのだろう。
誰かが保障して、しかし、そうあって欲しくはないが、
保障が間違っていたとなっても、誰が責任をとれるというのだろう。
誰もとれない。
紛れもなく政治の責任ではあるのだが、
無策で非情な政治の責任として放置しておいていいのだろうか。

すでに健康被害と思われるような兆候は表れている。
それでもわたしたちは、「なにもしない」
政治をただ指をくわえてみていることしかできないのか。

次の衆院選で、わたしたちは一体、どこに一票を投じたらいいのか。

2012年9月19日水曜日

9月19日


「2030年代に原発稼働ゼロとする」と
新しいエネルギー戦略を決めた野田政権が
予想通りというか、すでに野田首相自身にユレ
が見えはじめたような気配がある。
 
経団連などの財界からの強硬な反対もあるだろう。
民主党代表選の他の三候補は現在のところ、
2030年よりも『前倒し」でと言っているようだが。
一方、国策として原発をすすめてきた自民党の
総裁選の各候補は、当然、党内の意見でもある原発容認派。
次の衆院選で、自民が政権を奪還した場合は、
まがりなりにも、ぶれながらも野田政権が言っている「2030年ゼロ」より
さらに大きく後退するであろうことは容易に想像できる。
おおかたのわたしたちは、代表選や総裁選に一票を投じることは
できないのだが。
 
刊行されてすぐに読んだナオミ・クラインの「ショックドクトリン」。
サブタイトルは、「惨事便乗型資本主義の正体を暴く」。
文字通り、惨事に見舞われた人間の恐怖や底知れぬ不安を利用した
はげたか資本主義の靴音は、対岸ではなく、被災後のこの国が抱えた問題でもある。

2012年9月17日月曜日

9月17日

敬老の日だ。

いまもって長い間暮らしてきた福島に帰ることができず
(16万人のかたがたが帰ることができないでいる)、
その悲しみを言葉にすることもためらわれ、
下のまぶたで涙を堰き止めるために、空を見上げるお年寄りがどれくらいいるだろうか。

母を見送った夏が去り、いま5度目の秋。
新刊の拙著『自分を抱きしめてあげたい日に』(集英社新書)の前書きにも書いたが、
詩人長田弘さんのこのフレーズが、今日はひときわ高く、心の中で鳴り響いている。

……ことばって、何だと思う?
  決してことばにできない思いが、
  ここにあると指さすのが、ことばだ……。

……一人のわたしの一日の時間は、いまここに在るわたし一人の
  時間であると同時に、この世を去った人が、いまここに遺して
  いった時間でもあるのだ……

……亡くなった人が遺してゆくのは、その人の生きられなかった
   時間であり、その死者が生きられなかった時間を、ここに
   在るじぶんがこうして生きているのだ……。
  (長田弘『詩ふたつ』花を持って、会いにゆく 人生は森の中の一日)クレヨンハウス刊より

『自分を抱きしめてあげたい日に』は、去年の3月11日以降、
折に触れて読み返し、時には声にして読んで、
わたしを支えてくれた「ことば」たちの紹介と解説めいたものを綴ったものだが、
「決してことばにできない思い」を心の奥底で抱きしめながら、
しかし一方では、「ことばにしなければならない思い」もしっかり素手で握っていこう。

昨夜は時間調整に成功。東京新聞「こちら特報部」デスクの田原 牧さんと、
福島原発告訴団副代表の石丸小四郎さんのシンポジウム「原子力ムラの責任を問う」に参加。

田原さんの問題提議「もういちど、フクシマへ」に、そうそうホントにそう、
わたしがこのところ感じていたことと一致して感動。

東日本大震災から一年と六か月余。
わたしたちは、この「状態」に慣れてはいけない。
汚染状況に鈍感になってはならない。
そしていまも、苛酷事故の現場で黙々と作業を続けるひとたちを忘れてはならない。

2012年9月16日日曜日

9月16日


日曜日午後15時。
近隣での講演をいま終えたところだ。
昨日は世田谷区で社協の講演。
久しぶりに保坂展人区長にお目にかかった。

このところ、例によって前のめり状態が続き、帰宅するともうヨレヨレ。
ブログを更新する余力がないまま、ベッドにダイブしていた。
昨日、今日と東京での講演だったので、体調回復。
今日は元気な落合に戻っている。

野田政権は14日、エネルギー・環境会議で
2030年代に「原発稼働ゼロ」を目指す、新しいエネルギー政策をまとめた。
反原発、脱原発の民意をこれ以上無視することはできない、
と思ったのかもしれないが、
総選挙をにらんでの選択とちょっと意地の悪い印象も消すことはできない。
世界第三位の「原発大国」であるこの国の、この政権が、
遅まきながらも「脱原発宣言」をしたのだから、
世界に大きなインパクトがあることは歓迎するが、しかし……。
原発稼働ゼロには避けることのできない使用済み核燃料の再処理問題は
先送りにされたままの、「原発ゼロ宣言」。

廃炉や廃物の最終処分についても具体策は示されていない。
言葉だけの「ゼロ」では意味はない。
この政策の行方を厳しくチェックしていきたい。

自民党の総裁選の顔ぶれをみても、「原発ゼロ」に賛同しそうな候補者はいない。
このままいけば、憲法改変も実現しそうな恐怖を覚える。

そして16日、東京新聞の朝刊。
政府の2012年度予算の復興特別会計のうち、
高速増殖原型炉「もんじゅ」等を運営する独立行政法人・日本原子力研究開発機構の
核融合研究費に、42億円が計上されていたことがわかった。
東日本大震災の被災地復興のために、わたしたち国民に負担を求めた復興予算が、
復興とは無関係の「原子力ムラ」にいってしまったということだ。
この事実に京都大学原子炉実験所の小出裕章さんは次のようにコメントをしておられる。
「(略)核融合エネルギーは、実用化のめどが立っておらず、一般会計を含めて研究 予算を付けること自体無駄遣いだ」。

さらに枝野経産相は、電源開発大間原発など、建設中三つの原発に関して、
「2030年代に原発稼働ゼロ」という政府自らが掲げたロードマップに反して、
「建設の継続を容認する」考えを示したというニュースが。
これらの稼働が認められるのなら50年代まで稼働することになる。
ゼロ目標、やっぱり偽りだったな?

夕方から文京区で、東京新聞「こちら特報部」デスク・田原牧さんと、
双葉地方原発反対同盟代表・石丸小四郎さんのシンポジウム
「原子力ムラの責任を問う」がある。
なんとか参加しようと、いま時間を調整している最中だ。
久しぶりにお目にかかれることになる。

クレヨンハウスから刊行した田原さんのブックレット
『新聞記者が本音で答える「原発事故とメディアへの疑問」』。
自分がかかわっていて、妙なもの言いだが、心からお奨めの一冊!

2012年9月9日日曜日

9月9日

電力を大量に消費する真夏が終わり、残暑は厳しいけれど9月。

あれだけ社会を騒がせてきた「節電要請期間」も終わった。
結論からいえば、多くのわたしたちが予想したように、
大飯原発を再稼働させなくとも、電力は「足りていた」のだ。
真夏の、甲子園の決戦が行われた、あの電力消費量ピークの時でさえ。

これが、この国の「現実」である。
何度でも繰り返す。「これ」が、「この国」の、
そしてこの国の「財界」のやりかたであるのだ。
発行人をつとめる総合育児雑誌『クーヨン』に、
科学者猿橋勝子さんについて今朝がた書いた。

1945年8月、広島と長崎に原爆が投下された。
それより9年がたった1954年3月。
米国はマーシャル諸島ビキニ環礁で、水爆実験を行い、
マーシャル諸島の住民はもとより、遠洋マグロ漁船、
第五福竜丸をはじめとした日本の漁船の乗組員たちも被曝した。
米国の科学者は海水放射能汚染をはじめとして被害を小さく小さく見積もった。
どこの国にも「御用学者」は存在するのだ。
そのとき、猿橋勝子さんは「日本の義務」として、被害を調べ直し、
米国の研究所にも乗り込み、核兵器の被害実態を世界に問いかけたのだ。
いまより更に超大国だった米国と対峙して。
流布し続けた「安全神話」を、福島第一原発の過酷事故のあとは「安心神話」に乗り換えた、
この国の21世紀の御用学者たちは、猿橋さんの存在をどうとらえるのだろう。
岩波科学ライブラリーに、敬愛する友人であり、
世界的物理学者でもある米沢富美子さんの『猿橋勝子という生き方』がある。

今日は一日、宮城に。

2012年9月7日金曜日

9月7日

ご無沙汰の数日間、ばたばた走り回っていました。

涼しい朝でした。
大好きなルリマツリが涼しげな薄紫の花をつけています。

永田町は相変わらず、誰がトップに立つかで大騒ぎ。
福島をはじめ、東日本大震災のことなど忘れているのではないかと悲しくなります。
夜陰に乗じて、という言葉があるけれど、バタバタに乗じて、
首相は原子力規制委員会の委員の顔ぶれを決定。
あれだけの民意の反対を押し切っての決定に、唖然。
やはり、わたしたちの声は「大きな音」
(ご本人は言っていないと否定しているが)でしかないのだろうか。
2020年とか2030年とか、あるいは2025年とか原発「廃止」年度について、
推進派も反対派もいろいろな声があるが、わたしは「即刻廃止を求める。

海の向こうでも、このところ大きな地震が続いているし、
この国も南海トラフに限らず、大きな地震の予想がされている。
フランスの原発でも事故があったばかりだ。
詳細はわからないが、老朽化した原発だという。
日本も老朽化したそれを抱えている。
地震や津波だけが原発苛酷事故の原因ではない。
それでも尚、まだ待て、というのか。
浜岡原発のある静岡県が、住民投票を採択したことに、
かすかな希望を覚えるが、このところ永田町は、
まるで原発事故などなかったような、勢力争いに明け暮れている。

2012年9月2日日曜日

9月2日

9月1日の夜は、久しぶりに「セプテンバーソング」を聴いた。

いまやスタンダードナンバーになっているこの曲、
もともとは映画の主題歌ではなかったろうか。


♪ 5月から12月までは長い長い日々がある。
けれど9月になって、木の葉が色づきはじまると、
10月、11月、そして12月。月日は残り少なくなって……♪

この残りの日々を、あなたと共に過ごしたい、というようなラブソングだ。

毎年、8月末か9月のはじまりの夜にしばしこの曲を聴くのが、
夏を見送り、秋を迎えるわたしのささやかな儀式なのだが、
去年はそんな余裕などなかった。
8月31日、ちょっと体調を崩して、
夜遅くなりそうな約束を延期させてもらったので、
夜はこの唄を聴いた。

この歌の中で、9月、10月、11月と「今年」の残りの日々をカウントしているように、
一体、わたしたちが暮らすこの国はいつまで、
「いままでの暮らし」を続けようとするのだろうか。
福島第一原発のあれほどの苛酷事故を「体験」しながらも、
これほどまでに「民意」は原発はいらないと叫んでいるのに、
それが届かない無念さ、悔しさ。

南海トラフの被害想定可能な地図が発表されているが、
あの地図の中に幾つ原発があるのか。
被害想定地域に入っていなくとも、稼働していなくとも
原発は現にこの日本列島に54基あるのだ。
そのことと、予想される大地震を重ねて考えられないとすると……。
まだ何ひとつ片付いていない福島第一原発の「体験」を
どう位置付けたらいいのだろう。
わたしには、到底理解できない。

「体験」が意味があるのは、その体験から何を引き出し、
何を引き受けたか、にあるのだ、とわたしは考える。
福島の18歳未満の子どもたちの36パーセントに
甲状腺の「しこり」があるという発表を、
わたしたち大人はどうとらえるのか。

発表によると、「良性」というが、
「良性」であったとしても、どれほどの心理的負担であるだろう。
18歳未満の子どもたちは、
原発を一度たりとも選択していないのだ。
生まれてきたところに、原発があり、それが事故を起こしたということだけだ。

「セプテンバーソング」で幕開けしたこの9月も
走り続けるしかないようだ。
今日は島根にいる。