2011年8月31日水曜日

8月31日

首都圏で暮す、ひとりの女性であり詩人であり、母である
ひとからメールが届いた。
幼い「わが子」を通して、すべての子どもが「安全であるところ」を
探し、もがき、活動する日々の中で、以下、彼女が紡いだことば
たちである。


もしも、私たちが渡り鳥ならーすべての母たちへ


裸の凛とした肢体で

私たちはただの母だ

裸の凛とした肢体で

私たちは君たちを産んだ

君たちが産まれて 分娩室で裸の私たちの胸にのせられたとき

君たちは懸命に生きようと乳を吸おうとした

何もないことがしあわせだった

私たちは裸でも生きていかれる

素足のまま 歩いてゆける

もしも私たちが渡り鳥なら

何も持たず

安全な食べ物のあるところを目指して

君たちを育てられるところを目指して

今すぐにでも跳び立てる

ただ母としてただの裸のいのちとして

今私はただの母に戻りたい

君を産んだあの日

素足で世界に降り立って

世界と和解した夜

何度でも君を産みたいと願ったあの夜 はだかの私

はだかの君

お金も家もしがらみも仕事も何もかも棄てて

もう一度君と生きることだけを考えて

君を連れてここから跳び立ちたい

そしてすべてがはじまる

2011年8月30日火曜日

8月30日

エッセイストの渡辺一枝さんから以下の
メールが入ったので、ご紹介させていただく。
渡辺さんはいま、南相馬に行っておられるが、
9月を目前にして、被災されたかたがたの冬の衣料などが
すでに不安な状態だと、メールをいただいた。

以下。

南相馬への救援物資のお願いメール。
新品でなくても結構ですが、必ず洗ってボタンなど取れていたら付け、
直ぐに着られる状態にして送って下さい。
下着はできるだけ新品でお願いします。
男性用、女性用、大人用、子供用、お年寄り用など問いません。
家族が離散して暮らさざるを得なくなっています。
その分生活費も二重、三重にかかります。
ある家庭などお父さんは大阪(ここには仕事が無くなってしまった)、
お母さんと小学生の子供は福島、中学生と高校生の娘たちは仙台
(姉が仙台の高校に行っていたので妹も仙台の中学に行き姉が妹の世話をしている)、
おじいちゃん、おばあちゃんがここで仮設に入っています。
いまからすぐでも結構です。お願い致します。
送り先は下記です。送付状に「支援物資 衣料品」と記して下さい。

〒975-0049 福島県南相馬市原町区大甕字林崎51
ビジネスホテル六角 大留隆雄様宛
Tel 0244-24-2639
大留隆雄さん宛 (大甕はオオミカと読みます)
 
ここは「立ち入り禁止」のゲートから100m程手前にあるビジネスホテルです。
私はここにお世話になってボランティアに通っています。
南相馬が30キロ圏内の屋内退避になって物流が途絶えた時から、
ここが物資配給の基地になっていました。
公的なボランティアセンターではありませんが、
大留さんはここに送られる各種支援物資を
当初はお一人で被災者に配る活動をしていましたが、
現在は仮設住宅に入居している被災者たちが自らボランティアになって、
市内各所の仮設住宅や高齢者のお宅へ物資を配る活動をしています。
その活動の拠点になっています。
私がここに着いた日には岐阜から生協のコンテナ車が、
パラグァイからの支援物資の豆腐を届けてくれました。
これはパラグァイの日系人が東北の被災者のために
現地で作った大豆を送ってきて、それを岐阜で豆腐にして届けてきたのでした。
私も大留さんや他の方と一緒に、
この日は豆腐を仮設住宅のみなさんに届けました。
パラグァイからの豆腐はここだけでなく相馬、
仙台などここより先の各被災地へも届けられたことでしょう。
お願いでは冬物衣類についてお願いしましたが、
米、乾麺、その他食料もお願いしたいです。
パラグァイからの豆腐が届いた日は、
他にも「ルーテル教会」からパイナップル缶詰もたくさん届いていました。
ネットで「ビジネスホテル六角」で検索すると
各地の支援者の応援の様子がわかります。
時間があったらご覧下さい。  いちえ

2011年8月29日月曜日

8月29日

帰京の空港で、このブログを書いている。
空港に送ってもらうカーラジオが、
民主党代表選挙の模様を伝えていた。

予想通り、一回目の選挙では過半数を獲得した候補者はなく、
上位二人、海江田万里VS野田佳彦の決戦投票となる、
というニュースが入ったところで、車は空港についてしまった。
あとの三人を押したそれぞれの陣営が、どちらに一票を投じるか。
羽田空港に到着する頃には、結果がでているはず。 
と書いて、羽田に到着したら、野田佳彦首相誕生のニュースが。

誰が首相になろうと、この未曾有の国難と、いかに対峙し、
いかにひとつひととつを人間としての誠意と共感をもって解決していくか。
野田さんもこの短い選挙戦の間に挙げていた増税について
少しぶれたような印象も無きにしも非ず、で。
とまれ、小選挙区制になってから、新しい改革の気概を持った政治家が
出にくくなっている現実はあるが、まずは被災されたかたがた、
福島第一原発の被害者たち(農業・畜産業者への賠償)、
そして何よりも子どもたちの健康な未来への保障、
と待ったなしの「いま」がここにある。

2011年8月28日日曜日

8月28日

明日、月曜日には、民主党の代表が決まる。
政権交代から二年。
政治主導を唱えながら、無駄の削減を看板にしながら現実には‥‥。
幼ない権力闘争ばかりが目立ち、私たち市民置き去りの日々であった。
私たちは、内閣総理大臣を選ぶことはできない。

自民党政権時代からそうだったが、私は、
ずっと既成の政党に期待をすることはできなかった。
所属議員の数など、規模の大小はあるにしても、
どの政党も似たり寄ったりの権力闘争をしているだけで、市民は置き去りにされたまま。
それを政党と呼ぶかどうかは別として、本当の市民党のような存在が欲しい、と考えてきた。
社会の主流の声を体現するのではなく、
社会構造的に声の小さい側の声を丁寧に掬い上げる、政治のありかた。
それを実現するために、私たち市民がなにをできるか。
相手の土俵で、反対や異議ありを叫ぶのではなく、
新しい土俵をあらたにゼロから創る‥‥。
ぞれは見果てぬ夢なのか。
テレビのなかの、五人の候補者の上滑りな言葉を聞きながらしみじみと思う。
さあ、朝ごはんの時間だ。
しっかりご飯を食べて、仕事、だ。

2011年8月27日土曜日

8月27日

朝から今日はフル回転。
後藤政志さんの朝の教室でのご講演で、一日が始った。

原子炉の技術者として順風満帆に思えた日々のなかに、
忍び込んだ豆粒ほどの疑問が徐々に大きくなって、
2007年にはすでに、週刊誌などで、
この国の原子力発電について疑問を呈するように。
いくつかのペンネームを駆使しての告発。
そうして、今回の福島第一原発の事故を契機に実名での告発を。
ひとりの人間の人生を縦軸に、
原子炉の仕組みを横軸にわかりやすいお話しを。

函館や名古屋から参加された受講生もいらっしゃった。
後藤さんたちと早めのランチをクレヨンハウスですまし、
後藤さんたちは、午後一番で始まる、
田中三彦さんと小出裕章さんの講演会へ。
これから、私たちも参加します、という受講生も多くおられて、
彼女たちを見送ったあと、わたしは、九州からのお客さま、
摂食コミュニケーションネットワークの主催者の女性たちと歓談。

それから、国際フォーラムへ。こちらも各地から集まった
ホスピスで働く医療従事者のかたがたへ、
母の介護の日々から見えてきた医療、特に緩和ケアについての話を。
それを終えて、関西に。
長かった一日の終わりに、いまホテルで、このブログを書いている。
原子力発電も、緩和ケアも、命、というキイワードで、ひとつに結びつく。
自らのものでも、他者のものでも、何を最も尊ぶかで、人生の景色は違ってくる。

2011年8月26日金曜日

8月26日

わたしたちの食が、大変なことになっている。
生産者も消費者も、困惑の極みであり、
その結果、生産者と消費者が疑心暗鬼の中で対立するような構図さえ見える。
こういった対立の構図は、おおもとの責任、
ことの本質を結果的に隠すことになってしまわないか。
有機の農産物をあつかってきたわたしたち、有機食材の八百屋も、
この非情で無責任な国の構図に組み込まれてはならないと、
事故発生当時から考えてきた。
どうして、生産者と消費者と、その間に位置する流通や店が、
苦しまなくてはならないのだろう。
責任をとるべきは、一体、誰だろう。
「生産者をなんとか応援したい」という消費者の思いが利用されたり、
生産したものをなんとか流通したいという生産者の切実な願いが利用されたり、
売れるものは売りたい、それが生産者への支援になる、
という小売業の思いが利用されたりしながら………。
おおもとの責任を問う声は、消されていくのか。
本質は隠されていくのか。
それは間違っている、とわたしは考える。

昨日「オーガニック」メーリングリストを通して、
新潟大学農学部土壌学研究室・野中昌法さんからのメールをご紹介したい。
「国が 農家に報償する制度を作り、生産者と消費者が対立しないよう
宣言すべきと考えています。
今のままでは生産者と消費者を対立させて、
本質を見えないようにしているとしか思えません。
生産者と消費者が協働して食の安全問題を考えることが大切と思います。
福島県の農家はご自身が生産した農産物を毎日食しています。
稲わら問題の時、農家が悪いような情報や報道がありました。
また、消費者が過剰な反応を示しているような報道も出てきています。
今年、収穫されるコメについても国が情報統制するような動きも出てきています。
今回の原発問題の本質がごまかされようとしています。
事故を契機に「農」と「食」のあり方をを見直さなければなりません。
消費者も皆さんで食の選び方を考えるチャンスと考えます。」

なにもかもが信頼できなくなりつつあるこの時代、この社会で、
せめてもわたしたちは、柔らかくつながっていたい。
なにがホントで、なにがウソで、なんと「闘う」べきかを見極めていたい。

土曜日は、恒例のモーニングスタディ。
講師は後藤政志さん。
午後からはいろいろなところで、小出裕章さんや、アーサー・ビナードさん
たちの講演があるようだ。どの講演会にも参加したいが、
わたしは別の講演会で話をしなければならなくて、心二分される。

2011年8月25日木曜日

8月25日

池波正太郎さんのエッセイに次のような一文がある。
……人間という生きものは、苦悩、悲嘆、絶望の最中にあっても、
そこへ、熱い味噌汁が出て来て一口すすりこみ、
「あ、うまい」
と、感じるとき、われ知らず微笑が浮び、生き甲斐を覚えるように
できている。
大事なのは、人間の身体にそなわった、その感覚を存続させて
いくことだと私はおもう………(「私の正月」より)

人間の身体にそなわった、その感覚を、被災地のひとたちは、特に
福島のひとたちは持続できているだろうか。
錯綜する情報のもとで、いっぱいの味噌汁を「あ、うまい」と感じ、
われ知らず浮ぶ微笑を凍らせてはいないだろうか。

白樺湖湖畔で、抱いた生後2か月のあの子の、軽いけれど
確かな重みが甦る。
あの子も、この子も、わたしのシャツブラウスの裾をぎゅっと握り締めた
子も、そしてそれぞれのおかあさんたちも「じいじ」たちも、
みな、福島に帰ったのだ。
嗚呼。

2011年8月24日水曜日

8月24日

508・1ミリシーベルト、という数値を前に途方に暮れる。
福島第一原発に近い地域での積算放射線量の数値である。

事故から5か月もたって「はじめて」文科省から発表された。
職業として、放射線を取り扱うひとでも、
年間許容線量は、20ミリシーベルトである。
そうでない一般人の年間許容線量は、「1ミリシーベルトまで」である。
積算放射線量508・1ミリシーベルトといえば、
一般のものが許容されるそれの508年分、ということにはならないか。
むろん、風上か風下かでも、放射線量は違ってくるのだが、
それにしても「今頃になって」の発表である。

京都大学原子炉実験所の小出裕章さんによると、
この積算放射線量は、事故が起きた「3月中には計算できたもの」だという。
そうであるなら、それを今まで発表しなかったのは、なぜなのか。
一般は1ミリシーベルトというこの国の法律、に違反した上に、
それを知らさないということは、
いのちと人権への重大な侵略犯罪ではないか。
それでもわたしたちは、耐え続けなければならないのか。
従順なる市民でいなければならないのか。
「そんなに安全だと言うならば、
まずは政治家が、ここで暮らせばいい」
という、福島の高校生の言葉が痛い。

土曜日のクレヨンハウス朝の学校の講師は後藤政志さん。
「脱原発を唱えるものは感情的」という声も一方にはある。
わたしたちは何度でも原発の、原子炉の仕組みを学びたい。
そうして、「技術革新」の只中にいた、この技術者が、
なぜ、いつ、どのようにして自らが設計してきた原発に疑問を抱き、
脱原発を唱えるようになったかに耳を傾けよう。

わたしがはじめて後藤さんを知ったのは、
YouTubeの画像を通してだった。
そのあと、番組で直接お目にかかって、
話を伺い、なんと真っ直ぐで熱いかただと思ったのが、
3月の末だったか、4月のはじめだったか。
あれから5か月。
わたしたちは、いま、どこに立っているのだろう。

2011年8月23日火曜日

8月23日

旅先の九州でのはなし。

「実家がこっちにあるんでしょうね。
福島から来られているお客さんが多いですよ」
そんな声をよく聞く。
夏休みの間だけの「疎開」なのか。
「ほんとに気の毒で。いや、こちらも、ひとごとではないのですが。
やらせメールなどで話題の玄海がありますからね」
地元のひとがおっしゃっていた。

2011年8月22日月曜日

8月22日


きれいな黄色いおくるみに包まれた生後ニか月の赤ちゃん。
抱っこさせていただいた。
ご機嫌な赤ちゃんで、小さな足の裏で宙を蹴るような仕草をしていた。
「絵本、ありがとう」
と声をかけてくれたのは小学校3年生の男の子。
「福島っこの夏休み」で、
福島から白樺湖畔に「一時疎開」している子どもたちだ。
20日、およそ七十のご家族の、
主にお母さんたちとお話をした。
「次期首相のことばっかりが、報道されているますが、
わたしたちはどうなるのでしょう。
彼らはわたしたちの苦しみがわかっているのでしょうか、
伝えてください!」
泣きながらそう言ったのは、黄色いおくるみの赤ちゃんの、母親だ。
分厚いノートを、「放射性物質」、「メディアの情報」などと
インデックス分けをして、ノートを作っていた母親もいる。
なんとかして、子どもたちを守りたい………。
必死の思いが、びしびし伝わってくる。
みんな、泣いていた。
涙を流す余裕もなく、「今日まで来ました」という彼女たち。
子どもと一緒に写真を撮る。
一方の手で小さなピースサインを作り、
もう一方の手は、わたしのシャツの裾をしっかり握っている。
この子たちはなにも選んではいないのだ。
選んではいない原発の「暴走」が、
この子たちを苦しめているのだ。

時折り雨が降る長野で、
わたしの涙も止まらなかった。

間もなく、彼らや彼女らは、福島に帰っていく………。
小さな足の裏で宙を蹴っていたあの子も、
小さな手の指先でピースサインをカメラに向けたあの子も。

弾かれたように外に飛び出し、土を握りしめ、
それから「こうしてよかったんだっけ?」と母親を振り返った子も。
土に触ってはいけないとずっと言われ続けた癖が
ついてしまったのだろう。
「ここは、大きく息すっていいの?」
と尋ねた子も。
みんな、みんな帰っていくのだ。

2011年8月21日日曜日

8月21日

長野県での別の講演会を。
昨夜は、重松清さんの『季節風』から読みはじめ、久しぶりに山本周五郎さんの短編も。
気がついたら、夜明け間近。
たくさんの仕事をもって出てきたのに、なかなか手がつかないが、
ふたりの作家の作品を堪能。
描く時代は全く違うのだが、重松さんの作品と山本周五郎さんの作品。
どこか深い地下水脈で、つながっているような。

2011年8月20日土曜日

8月20日

19日は豪雨の羽田を飛び立って、九州飯塚へ。
人権についての講演会。
人権とは誰の「足」も踏まない、誰にも自分の「足」を踏ませないこと。
この場合の「足」とは、ひとが、ひととして等しく生きる上での「尊厳」そのもの………、
と解釈している。
が、ひとの尊厳そのものがかくも容易に踏みにじられる社会であり、時代である。
「円高・人間安」の時代は続くのか。
最終便で、九州から帰京。
わが家に一泊して、白樺湖の湖畔へ。
湖畔に点在する宿に滞在している福島からの大勢のご家族に
向けて、話を。
「HUG&READ」に全国から寄せられた絵本たちは、
彼らの手にもしっかり届いている。
しかし、しばし郷里を離れ、3・11以降の「フクシマ」から
束の間、解放された彼ら彼女たちに、どんな言葉で話ができるのか。
どのような言葉で「いま」という時を分かち合えるのか。
正直、迷いに迷っている。
 

2011年8月19日金曜日

8月19日

北海道、泊原発が再開してしまった。
「フクシマ」の暴走は収束がまだまだ見えないという状態だが、
どういう心積もりなのだろう。
女性の意識が行政に入ることを、数の論理からも必要だ
と思うわたしが一方にはいるのだが、
高橋知事は、道民の不安や困惑をどうとらえているのだろう。
彼女の出身を考えれば、こういった結果になることも予想できたが、納得いかない。
それに、八月に入ってから、
めっきり「フクシマ」のニュースが減ったように感じるのは、
わたしだけだろうか。
現在進行形のみならず、未来への大きな影を背負った子どもたち。
わたしたち大人は、
このまま目を逸らすわけにはいかない。

8月27日の「朝の学校」講師は、
現実に東芝で原子炉の開発を手がけてこられた後藤政志さん。
技術者としてかかわってきたもろもろに疑問を抱いた瞬間から
後藤さんの「新しい人生がはじまった」。
長い間、ペンネームで告発されてきた彼が「フクシマ」を機に、
実名で告発することを決めたことも含め、
原発の仕組みと危険について、しっかりお話をうかがたい。

2011年8月18日木曜日

8月18日

今年の夏は、クレヨンハウスにハニーサックルの花を咲かせよう。
蜂蜜のように、甘い香りのするあの蔓性の植物を階段に這わせよう。
秋になれば、紅葉も素敵だし、と計画していた。
白い花をつけるナツユキカズラもいい。
花のトンネルも作ろうと思っていたのに、どれもが頓挫した。
それどころではなかった。
代わりに向日葵はたくさん咲いてくれたけれど。

嗚呼。除染したあとの福島に咲く向日葵たちよ。

来年こそ、ハニーサックルを咲かせよう。ナツユキカズラも
と思いながら、来年の計画をたてられないでいるわたしがいる。

2011年8月17日水曜日

8月17日

旅は続いている。
このブログのタイトルをお借りしている「沈黙の春」の著者、
レイチェル・カーソンは次のように言っている。It is one of the ironies of our time that, while concentrating on the defense of our country against enemies from without, we should be so heedless of those who would destroy it from within.
わたしたちが生きる自体の大いなる皮肉のひとつは、外の敵からわが国を
守ろうと必死になる一方で、内側からこの国を滅ぼそうとする敵に対して
あまりにも無防備(不注意)なことです。

まさに、この国も同か。

2011年8月16日火曜日

8月16日

頬にそばかすがある、長くつ下をはいたあの少女。
ごたごた荘で、サルのニルソン氏と暮す、ピッピ。
馬を持ち上げてしまうほどの力持ちの女の子。
権威的なものが嫌い、というのも、素敵じゃないか。
その『長くつ下のピッピ』(岩波書店/刊)の生みの親、
アストリッド・リンドグレーン1907~2002)は言っている。
It makes no difference to me whether I meet a queen or a cleaning lady.I can't judge what they are.I see them as the children they once were.
女王に会っても清掃係に会っても、わたしにとっても何のかわりもありません。
いま、なにをやってるかで、ひとを判断はしません。
むしろ、どんな子どもだったかが、わたしがひとに接するときの規準です。

ひとは成長し得るもの、幾つになっても変わり得るものだとわたしは
信じてはいるが………。
ひとの痛みを感じていないような、エライひとたちの言葉を耳にするたび、
このひとはどんな子どもだったのだろうと、ふと思う。
夏の朝、朝顔の花を数えたことがあったのだろうか。
夏の午後。縁側に仲間と並んで、スイカを頬張ったことがあるのだろうか。
夏の夜。自分より小さい子が火傷をしないように注意しながら
線香花火をやったことがあるのだろうか。
エライひとたち。
あなたは、どんな子どもだったのだろう。
そして、あなたは福島の子どもをどう思うのだろう。
旅空の下、せつなく、やるせなく、腹立たしい夏を行く。

2011年8月15日月曜日

8月15日

終戦記念日も旅空のもとで、

今日は66回目の終戦記念日。
1945年の8月15日。
シングルでわたしを出産した母は、22歳、
わたしは生後7か月の赤ん坊だった。
郷里の栃木県宇都宮。
終戦の年に生まれた偶然を必然に変えて、
わたしは66年生きてきたような気がする。
反戦も反差別も、わたしには特別のことではなく、自然なことだった。
絶対を言わない母が、戦争にだけは絶対という言葉を使って、
こう言っていた。
「戦争だけは、絶対ダメ、絶対いやだ」と。
湾岸戦争のとき、母の意識はまだしっかりしていた。
「絶対ダメだよ」
アフガニスタンへの「報復攻撃」がはじまったとき、
母の意識は、すでにぼんやりしはじめていた。
いま自分が在る現実と、現実の向こうを往復するように。
それでも「戦争は絶対ダメ」。
イラク戦争がはじまったとき、
彼女は言葉も意識もほぼ失っていた。

おかあさん。
2011年。わたしたちは新しい「戦争」を迎えてしまったのかもしれない。
放射能との闘い、という。
おかあさんは言っていたね。
「戦争をするのが人間なら、それをやめることができるのも人間だ」と。
この新しい「戦争」を完全に終らせることができるのは、いつなんだろう。
どれだけの子どもや胎児が、この「戦争」で被曝するのだろう。
確かなことは誰もわからない。

2011年8月15日
母が愛した郷里には、ササユリは咲いていただろうか。

2011年8月14日日曜日

8月14日

旅先からのメールになる。

わたしの仕事部屋の棚に、3匹のブタがいる。
親ブタ1匹と子ブタ2匹。
親ブタは、耳を横に張って、何かに耳を澄ましているように見える。
2匹の子ブタは、鼻を少し上向きにしている。
この素焼きのブタたちは、沖縄からやってきた。
かわいくはないところが、かわいいのだ。

この3匹のブタに目をやるたびに思う。
かの地で餌も水も与えられず、死んでいったブタを。
悲しい共食いの果てに、死んでいったブタたちを。
いつかは、ひとの胃袋に収まるブタであっても、
あんな非情な最期を迎えるとは。

2011年8月13日土曜日

8月13日

いつもは深爪のわたしの爪が、気がついたら伸びていた。
伸びた爪を見ながら、考える。
爪を切る、という日常が3月11日以降、
わたしの中から消えていたのだ、と。
長い爪は、伸びた爪と指先の裏側に
ゴミがたまるからイヤだ。
おむすびを握るときも邪魔だし、
せっかくのご飯を汚すような気がしないでもない。
それにパソコンも使いにくい。
そう思ってきたのに。
ずうっと、気もそぞろの日々だったのだ。

やっぱり減っている。
いのちそのものにかかわるニュースが。

土曜日午前中は、クレヨンハウス朝の教室。
哲学者の高橋哲哉さんの「犠牲のシステム」についての講演。
このところ、とみに思う。
わたしたちは、わたしたち自身の中に、
もう一度「哲学」を創り上げなくてはならない、と。
どのように生きるか。自分が生きることが、ほかの誰かを犠牲にしていないか、と。

「朝の教室」の司会を終えて、午後は、横浜でのピースフェスタでの講演。

2011年8月12日金曜日

8月12日

『いのちの籠』という小冊子が、刊行ごとに送られてくる。
「戦争と平和を考える詩の会」発行。
裏表紙には、次のような言葉が。

………『いのちの籠』に掲載されている詩作品は、反戦集会などの
いろいろな集まりで、朗読その他、自由にお使いください………と。
「自由」に使うことを許容する、という言葉の向うに、
戦争を決して許さず、平和を希求する個の、揺るぎない思想と姿勢が。
『いのちの籠』18号の中では、
島崎文緒さんが、『少年と少女』という詩を書いておられる。

「ぼく もうじき死ぬんでしょ」
一人の少年がうそぶくように言い放った。
チェルノブイリ原発事故から四年。
強度被曝の村から越してきた仲間が
次々に死んでいく 白血病で 癌で
小学校高学年の彼らは
ひどく無気力な表情をしている
未来を消された少年たち
どうして投げやりにならずにいられよう

「わたし 赤ちゃん産めないの?」
少女は泣きながらたずねる。
「もし女の子が生まれたら その子の髪を
母さんに三つ編みにしてもらいたかったのに」
「そんなことはないよ」 母は静かに答えた
「女の子なら三つ編みに結ってあげようね」
気休めとせめられようか
夢を奪われた少女に
母親は その他に何を言ってやれよう

2011年8月11日木曜日

8月11日

昨日から金沢に。
海は蒼く、空もまた蒼い。
旧盆がやってくる。わが家では毎年、旧盆に迎え火をたいて、
茄子や胡瓜で動物を作ってお供えする。

旧盆を迎える被災地の人々。
せめて、思いっきり泣ける時空を。
涙を堪えてはいけない。
憤りを飲みこんではいけない。
あなたには、
泣き、憤り、要求する正当な権利があるのだ。

2011年8月10日水曜日

8月10日

ニュースが減っている、と首を傾げるのは、わたしだけか?
「収束」が見えないにもかかわらず、原発のニュースが減っている。
けれど、その間にも福島で暮らすひとびとは、特に子どもは、
3・11以前とは全く違う空気の中で、ご飯を食べ、歩き、走り、笑い、泣き、親の胸に飛び込む。
飛び込まれた親は、未決のままの、未処理のままの、
数々の情報の中で、ひきつった笑顔を作りながら、空を仰ぐしかないのか。

去年と同じ夏空が頭上には広がる。去年と同じでありながら、まったく
違ってしまった夏空は、去年と同じ、けれど去年とは違うムースのような夏雲を
浮かべている。

福島の学校で、生徒たちにマスクをすること、できたら長袖を
着用することをすすめたひとりの教師が退職した、という。
不安を煽った、という理由で、居づらくなったことが理由であるらしい。
こうして、言い知れぬ恐怖の中にいる人々が二分されていく。
対立させられていく。
本来、手をとりあえるひとたちが。
本来、同じ方向を見つめることができるはずのひとたちが。

2011年8月9日火曜日

8月9日

新聞朝刊の一面に
毎日掲載されていた、
亡くなったかたの人数についての
掲載が消えて、久しい。

東日本の各地では今日も、
大震災の影響で亡くなった
かたはおられるはず。

♪………うさぎ追いし かの山
こぶな釣りし かの川………

8月の一週目が過ぎて、
めっきり早くなった夕暮れの時間。
どこからか、懐かしい童謡が流れてくる。
『ふるさと』を奪われたひとは、
どこで今年の旧盆を迎えるのだろう。

自らの意志でふるさとを離れたのなら
「遠くにありて思うもの」かもしれないが
「ふるさと」から剥がされたこころは
ただただ彷徨するだけだろう。

2011年8月8日月曜日

8月8日

二泊三日の「夏の学校」は
今日で無事終了。
熱をだすひとも体調を崩すひともなく、
居心地のいい柔らかな空気の中での三日間。
受講生の皆様。ありがとうございます。
それぞれの「あなた」が、2011夏の学校の創設者です。
そして、講師のかたがたも、ありがとうございます。
笑いあり、涙あり、の充実した空間の中で、
心を気持ちよく解き放つことができました。

来年の夏は、どんな講師のかたがたを?
と、すでに気持ちは2012年へ。
感謝、感謝の三日間でした!

2011年8月7日日曜日

8月7日

クレヨンハウスの夏の学校。二日目の夕方。
朝7:00からはじまった3つの講義、1分科会が終わって
これから夕食だ(すごい過密スケジュール。笑)
朝もお昼も夕もしっかり規則正しく食事をとっている。
オーガニックの食材を使った料理を二年続けて引き受けて
くれた東武ホテルレバント東京(錦糸町)に大感謝。

講師のかたがたも喜んでくださっている。
受講生にとっても講師にとっても原発は、自らの
生き方を問われるテーマであるからだろう。
会場のあちこちで(場合によってはトイレでも)熱い会話が。
この熱さを、持続する意志の力として、
自分の真ん中に据えたい。
これから新沢としひこさんのコンサートだ。

2011年8月6日土曜日

8月6日

8月6日。
広島に原爆が投下された日である。
原爆と原発。おおもとは同じなのだ、
と2011年3月11日以降、改めて実感させられている。
友人から、井上ひさしさん作、
こまつ座の『父と暮せば』の公演に誘ってもらった。
行きたいのだが、是非是非行きたいのだが
無念なことに、仕事の都合で行けない。
わが家には、なぜか英文対訳の『父と暮せば』もある。
前口上で、井上ひさしさんは次のように記しておられる。
ヒロシマ,ナガサキの話をすると、
「いつまでも被害者意識にとらわれてはいてはいけない」といわれる。
当時、「日本人はアジアにたいしては加害者だったのだから」とも。
確かにそうなのだが、と井上さんはおっしゃる。
しかし、1945年にヒロシマ・ナガサキに落とされた二つの原子爆弾は、
「日本人の上に落とされたばかりではなく、
人間の存在全体に落とされたものだと考える」。
ヒロシマ・ナガサキの被曝者は、
「二十世紀後半の世界中の人間を代表して、地獄の火で焼かれたのだ」。
それゆえに被害者意識からではなく、
「世界六十二億の人間の一人としてあの地獄を知っていながら、
『知らないふり』をすること」は、決してできない、と。
それは「なににもまして罪深いことだと考える」から、書くのだ、と。
(こまつ座・発行)
きょうから、2泊3日の「クレヨンハウス夏の学校」がはじまる。
井上さんも、この学校の講師のおひとりとして来ていただいたことがあった。
子どもが言葉を獲得していく過程と物語の誕生について、
素晴らしい講義をしてくださったことをまるで、
昨日のように覚えている。
つい数日前も、新聞に「いま、ここに井上ひさしさんがおられたら………」
というコラムを書いたばかりだ。

2011年8月5日金曜日

8月5日

アンデルソン・サーというミュージシャンがブラジルにいる。
暴力を必要としない創造的楽しみとして、
「アフロレゲエ」というバンドも結成。
若者たちに、非暴力をアピールしつづけている。
彼の言葉に次のようなフレーズがある。

………I think there is a revolutionn
you do inside yourself,
and there is another revolutions
you do inside the minds of people
きみがほかでもないきみの内側で起こす革命もある。
そして、ほかの誰かの心の中できみが起こしうる
革命もあるよね。

わたしたちもいま、いのちを軸に柔らかな、けれど
決して屈することのない「革命」を起こそう。

2011年8月4日木曜日

8月4日

7月27日、衆議院厚生労働委員会に参考人として出席した、
東京大学アイソトープ総合センター長・児玉龍彦教授(内科医)が注目されている。

まずは、「七万人が自宅を離れてさまよっている時に、
国会は一体なにをやっているのか!」
この一喝は、そのまま、わたしたち市民の「声」そのものだ。

児玉さんの発言内容は、8月3日付け東京新聞11版に詳しい。
現行法では、特定の場所に少量の高い放射能があることを前提としている。
が、これでは「個々の濃度」が問題になりやすい。
確かに、週刊誌などの特集でも、「個々の濃度」が問題になっている。
が、児玉さんは「放射線障がいは、総量こそが問題」だと主張されている。

また、原爆による放射線の残存分は一年で千分の一程度に低下するが、
原発のそれは十分の一程度にしか低下しない。
そのために「汚染地での徹底的な測定」が必要。
また、食品検査に最新測定器を使わない政府に、
「満身の怒りを表明します」。

東大というとイコール御用学者という図式が
この間できあがってしまった観がある悲しいこの国の現状だが、
「測定の不徹底」と民を置き去り、遺棄する政府に、
これだけの憤りを表現したひとに、心からの敬意を。

「朝の学校」の講師としてお願いしたい。

2011年8月3日水曜日

8月3日

発行人をつとめる育児雑誌『月刊クーヨン』9月号(8月3日発売)の小さな記事で、
「やっぱりね、なるほどね」と発行人のわたしが頷くことがあった。
東日本大震災に関する米軍の災害支援のニュースに接したとき、不吉な予感がした。
支援はむろんありがたいことだが、
これが沖縄の反基地運動に間接的に水をささないか不安だった。
支援してくれたのだから、だから、とあまり厳しいことは言えない、と。

あの「トモダチ作戦」について、
『クーヨン』の「COOYON EYES 86頁」は、次のように書いている。
アメリカの新聞ウォールストリート・ジャーナルによると、
「トモダチ作戦」の実態は、放射能に汚染された戦場を想定しての訓練だった、と。
そして、これを日本で報じたのは、琉球新報一紙だけだった、と。
訓練は、福島第一原発事故を、テロ集団が核汚染を引き起こす爆弾を爆破させたと
見立て、在沖米海兵隊第31海兵遠征部隊(31MEU)が参加。
「放射性環境下では最も有名な作戦になるだろう」
と米軍は評価していたという。
琉球新報では、作戦に参加して放射能汚染された航空機などが、
沖縄の米軍基地に戻って除染した事実を挙げ、
「除染に使った汚染水の行方」や
「汚染された航空機などが沖縄にくることも知らされていなかった」と、報道している。
こういった事実が全国紙で報道されないことも、不本意なことだ。
福島の子どもたちが差別されたり、
福島ナンバーの車が嫌われたりするのは論外だが、
それとこれは、また別の問題だ。
何度もこのブログで書いているように、沖縄の現実と福島のそれは相似形である。
誰かの、あるいは、どこかの、犠牲の上に成立する「繁栄」は、
人にとって決してフェアなシステムではない。

2011年8月2日火曜日

8月2日

火曜日夜は、NHKのラジオ深夜便、ミッドナイトトーク。
今夜のテーマは「私の好きな日本の風景」。
今回のテーマを聞いて、東日本のあちこちで接した風景を思う。
名所旧跡よりもむしろ、わたしは、リアルタイムの暮らし、
市井の暮らしの中を、
旅行者としてちょっと忍び足で歩かせてもらうのが、最も好きだった。

なんでもない路地。
白粉花が咲いている。
少し急な坂道をおりていくと、目の前に広がる海。
堤防で釣り糸を垂れるお年寄りの麦藁帽子。
小柄ながら、がっちりとしたその背中。
寄り添うようにして、遠く沖合いを見ている一匹の柴犬。
やがて、夕焼けの時間。
松林には大待宵草がぽっかりと花をつけ、蜩の声が。
そんな光景にも、もう再会できないのか。
あの麦藁帽子の彼は、柴犬は無事だろうか。

今週からは恒例の「夏の学校」。
少し元気にならなくては、朝とお昼を食べ損なって夕方に、
大根おろしたっぷりの掻き揚げ蕎麦をすする。

2011年8月1日月曜日

8月1日

クレヨンハウスの朝の学校から
二冊のブックレットが生まれました。

5月28日に講師をつとめられた、
上田昌文さんの『原子力と原発きほんの「き」』。
6月11日の講師、安田節子さんの『食べものと放射能のはなし 』。
クレヨンハウス初のブックレットだ。
表紙の絵は、絵本『はやくはやくっていわないで』で、見事に柔らかく
胸にしみる絵を描かれた平澤一平さん。

誰にでもわかりやすく、をテーマに、
受講生の皆様と一緒に作ってきた、これからも作り続ける
朝の教室から誕生したことが、わたしは嬉しい。
ひと、と、ひとが、柔らかく繋がる、小さなきっかけになってくれたら、
と願っている。

むろん、このようなブックレットを緊急に発行しなければならない
時代と社会になってしまったことは、
大人のひとりとして、悲しく、深く反省するが。

サブタイトル「わが子からはじまる」は、
わが子から始まって、わが子ともに同時代を生きる、
すべてのそれぞれの子どもと大人がともにシェアしていただきたい
という思いをこめて、つけたものだ。

ほかの書店さより少し早く、クレヨンハウスの
店頭には並んでいる。


左)わが子からはじまる 『原子力と原発きほんのき』上田昌文/著
右)わが子からはじまる 『食べものと放射能のはなし』 安田節子/著
いずれも 定価 525円(税込)