2014年9月25日木曜日

9月25日

23日、「さようなら原発全国大会」。
晴天に恵まれて、無事終了。

おつかれさま!でした。
代々木公園から亀戸中央公園に
会場が変わりましたが、
16,000人(主催者発表)ものかたがたが
全国から集まりました。
九電の川内原発再稼働反対と、
もちろん福島への思いを再び心に刻む集会&デモ。

わたしは「デモ体質」なのかしら? 
デモをすると、机にへばりついていると時に見舞われる
腰痛が消えるのです。普段、運動不足ということかも。

横断幕を手に歩き始めて15分もたった頃。
一軒の葬儀社の前を通りかかりました。
この前で声をあげるのは失礼かも、と思った時、
その会社の前には、黒いスーツ姿の
中年の男性がひとり立っているのが
目に入りました。
社員であるのか、あるいは御葬儀の相談に
来られたかたなのかは知りませんが、
「うるさい」と思われたのかな、申し訳ない
と場所柄、戸惑いましたが、しかし……。
わたしたちが「さ、い、かどう 反対」と
声をあげるたびに、彼のぴっかぴかの
黒い革靴の爪先が、なんと同じように
リズムをとっているではありませんか。

最初、錯覚かしら? とわたしの視線は彼の
革靴の爪先に釘付け。何度見ても、爪先が
「さいかどう はんたい」、「さいかどう はんたい」。
舗道の彼の横を、車道のわたしたちが通過する時には
彼の唇も音声を消したまま、
「さいかどう はんたい」「さいかどう はんたい」
と確かに動いていることを発見。
なんか、すっごく嬉しかった。
「前回もそう感じたけれど、下町って道行くひとの
反応が率直ですね」
解散後にハイタッチを繰り返した、女性たちの感想。

51回目を迎える朝の教室
28日(日)の講師は、作家の高橋源一郎さん。
以下、高橋さんの単行本から。「次男」さんが
「重度な障がい」を負うかもしれないと医師から
言われた時のことを記された文章だ。
……わたしと妻は、一度、帰宅した。用意すべきことがいくつもあったからだ。
(略)次男がこれからずっと寝たままで生涯を過ごすとして、いくら経費がかかるか、
わたしが死んでからなおどれほどの年月、彼は生きねばならぬかを考えた。
わたしに財産はないに等しい。それからまた別のことを考えた。
重度な障害の遺った次男は、
どんな生活をおくることになるのか。教育はどうなるのか。
(略)翌朝、わたしは、それがどのようなものであろうと、事実を受け入れるべきだと
考えるに至った。
そして、その瞬間、不思議なことに、いままで考えたことのないような深い喜びを感じた。
いま思えば、その夜、わたしはキューブラー・ロスが言った「死を受け入れる5つの段階」を
経験したのだ。
否認(なぜ、彼が死んだり、障害者にならなければならないのか)→怒り(彼には
なんの咎もないのに)→取引(わたしはどうなってもいいから、彼を元に戻してほしい)
→抑鬱(もう耐えられない)→受け入れ(この事実を認め、どうやって彼と共に
生きてゆくかを考えよう)である。
子どもの死は、わたしにとって、自身の死に匹敵するものだったのだろうか。
あるいは、解決できない難問を前にすると、
わたしたちはいつも「死を受け入れる5つの段階」と同じステップを踏んで
考えるしかないのだろうか。
わたしは、次男が死ぬまで身動きできず、ことばも話せないという状態になったとして、
最後まで支えることを決めた。
「決めた」というのは、おかしな表現かもしれない。それは、「責務」だろうか? 違う、
とわたしは感じた。わたしたちにとって義務や仕事の多くは
「わたしではなく、他の誰か」でも代替可能なものだ。だが、その次男を支えて
生きることは「他の誰かではなく、わたしたち親」に対して、捧げられた仕事なのだ、
と感じた。
わたし(たち)にしかできない仕事、あるいは義務、それは喜ばしいものでは
ないだろうか。
一日かかって、前掲の結論に辿りつかれた高橋さんは、そのことをおつれあいに告げた。
……すると、妻は呆れたように「そんなことを一日考えてたの?」といった。
わたしが一日かかってたどり着いた結論に、妻は、医師の宣告から数分で
たどり着いていたのである。
わたしたちが彼らを必要としているのだ……。
こういった切実な体験を通して(だろう)、高橋さんは「弱さ」というキイワードを
再発見する。
「弱さ」とは何なのか。それは「否定」されるべきものなのか。
むしろ、「そこ」から学ぶものがあるのではないか……。
原発に関しても、この時代の諸々の現象、コトやモノに関しても、
様々なご意見がある「高橋源一郎ワールド」。
お楽しみに。わたしもすっごく楽しみだ。