「re」という接頭語が、英語にはあります。「……し直す」という意味です。
3.11以降に生きるわたしたちは、わたしたち自身のくらしを考え直し、
捉え直し、見つめ直し、構築し直すことが必要ではないでしょうか。
まさに、いま「まだ、まにあうのなら」。
2012年7月9日月曜日
7月9日
茨城県東海村に行ってきた。
「脱原発首長会議」の呼びかけ人でもある、
茨城県東海村の村長、村上達也さんと対談するためだ。
東京新宿を11時30分にたって、途中パーキングエリアでお蕎麦などすすり、
2時間余で東海村に。
東海村といえば、1966年わが国で初の商業用原発が稼働したところである。
村上達也さんが東海村の村長になったのは、1997年。
1999年9月30日の、核燃料加工会社JCOの臨界事故。
出張先の栃木県で村上さんは、緊急の電話で知らせを受けた。
とって返した村上さんは、災害対策基本法から逸脱する独断で、村民を避難させた。
「私が守るのは原発ではなく、住民だ」
この臨界事故では、無念にも2名の作業員が亡くなった。
村上さんが村長に就任した、東海村には2機の原発があり、水面下では、
3号機、4号機の建設も予定されていた。
原発を一機誘致すれば、20年間で、1千億円が入ってくる。
それゆえの、3号機、4号機の増設計画である。
決してはじめから脱原発と考えていたわけではないが、
増設には積極的になれなかった。
そのあと3度の村長選があった。
独断で住民を避難させた臨界事故直後は違ったが、3選目、4選目の村長選では、
推進派や原発増設派が対抗馬として立候補し、僅差での当選だった。
そうして2011年3月11日東日本大震災。
その時、東海村第二原発も、冷却用の海水ポンプのひとつが津波のために水没し、
福島第一原発とほぼ同じような危機一髪の状態にあったと村上さんが知ったのは、
震災から2週間がたった頃だった。
福島の惨状を知れば知るほど政府への、不信感が募った。
過酷事故を過少評価し、情報を隠ぺいし、被災者に不要な被曝を拡大させる専門家集団。
原発に反対するものを敵視したり無視する推進派。
昨年の6月、当時の経産大臣が安全を宣言し、運転再開に向けてゴーサインを出した時、
村上さんは、明確な「脱原発」派になった、とおっしゃる。
東海村に並ぶ家々の庭には、向日葵が咲き、立葵が青い空に向かってすっくと立っている。
梅雨の晴れ間に洗濯物は舞い、田んぼには緑の稲穂が。
これらの光景も、海水ポンプが水没した3・11に失われていたかもしれないのだ……。
詳しい対談は、「通販生活」の秋号を。
鹿児島県知事選・向原祥隆さん。残念。