またまたブログをさぼってしまった。
東京を離れる日が多く、というのは言い訳でしかない。
なんだか少々疲労気味。
最終便で帰京してブログを書こうと思うのだが、
2時間ほど寝てから、とベッドにダイブ。
気が付くと、朝になっていて、また羽田へ、東京駅へ、の繰り返しだ。
せっかくipadを買ったのだから、車内で送ることもできるのだが、
そんな時に限って、「あ、玄関に置いてきちゃったっ」のていたらく。
最近、もの忘れをはじめ、具体的な忘れものがほんとに多い。
これも加齢からの贈りものだが、
忘れてはならないものが、わたしたちにはある。
福島第一原発の「いま」である。
作業員のかたがたは今も尚、被ばくしながら
酸鼻な作業を続けておられる。
そして、今日のような秋晴れの日、子どもたちは?
地区によって放射線量は違うが、
ひとりひとりの子どもの「いま」と「これから」を考えると……、
申し訳なくて仕方がない。
復興予算が復興のためではなく、ほかに使われている。
そして現政権相変わらず、
「まるで原発事故などなかったかのような」日々の中。
40余年に渡り、原発を推進してきた自民党は、
自分たちがやってきたことなどすべて棚上げにし、推進に向かっている。
これだから、信頼できないというのだ、政治には。
これだから、再稼働はもちろんのこと、
2020年や25年や30年とはいわず、
わたしは即刻の廃炉を求めているのだ。
「とうきょうには オスプレイ とばないの?って
羽田に着いた途端、この子ったら聞くのです」
クレヨンハウスの店頭、沖縄からこられた家族の、お母さんから聞いた話である。
こうして、ある地区を犠牲にし、「あめとむち」をもって
高橋哲哉さん言うところの「犠牲のシステム」は進んできた。
それは事故後の今も尚、「この国」にしっかり根を張っているのだ。
怒れ、わたしよ。
怒ってどうなるかを考えるより、
怒りを表明するのだ、わたしよ。