今日は、67回目の終戦の日。
「記念日」という言葉になにがなし抵抗があって、
「終戦の日」とわたしは呼んでいる。
元気だった頃、そして意識がはっきりとしていた頃、
母はこの日が来ると、しみじみとした口調で繰り返したものだ。
「もう、何があっても、戦争だけはいやだねえ。
絶対と言う言葉はめったに使えないけれど、これだけは絶対」と。
67年前、小さな地方都市で婚姻外でわたしをうんだ母は22歳だった。
親類縁者、友人からも猛反対をされた上での出産だった。
「最初から父親のいない子にしてしまってごめんなさい」
母は時々、そう言った。
「謝ることなんてないじゃない。わたし、
生まれてきてよかったと思ってるもん」
湿っぽい話が大の苦手な娘はそう言って、それ以上、
話が深まることにブレーキをかけたものだ。
もしかしたら、母はわたしの父にあたるひととの出会いについて、
戦時下で深めた愛について、もっと話をしたかったのかもしれないが。
数日前に書いたように、原発は核問題であるのだ。
「核」は廃絶するしかない。
普天間に配備される予定のオスプレイについても
「安全性」をうんぬんする前に、わたしたちは考えたい。
オスプレイは武器であり、
「安全な武器」など存在しない、と。
福島第一原発30キロ圏内にある川内村に行ってきた。
郡山駅から車でおよそ1時間20分弱。
住民の約一割に当たるひとたちが帰村しているという。
首相の「収束宣言」に呼応するように、
いち早く「帰村宣言」をした、山の多い村だ。
この村もまた、福島第一原発の過酷事故によって、
さまざまな苦悩と試練をいやおうなく迎え入れざるを得なかった。
わたしは反原発の話と、帰村についても
「自分で充分考え、自分で選ぶしかないこと」、
可能な限り情報を集め、自前で取捨選択をすること、
その場合、原発に疑問を呈している側の意見や情報にも耳を傾けてほしいことなどを
繰り返し語るしかなかったが。
住民の望郷の念はわかる。
誰もがそうしたいに違いない。
が、特に小さな子どもや、
これから新しいいのちを迎えるであろう若いひとの場合……。
どうすればいいのか。
他者がどこまで介入できるのか……。
いろいろなことがフラッシュバックで脳裏をよぎり、
不安定な時空を身体ごと漂うような時空だった。
帰京して、昨夜は遅くまで開いている花屋さんを探し、
母の好きな白と淡い緑色がかったトルコ桔梗に
紫の濃淡の八重咲きの同じ花、そして白い竜胆を母の遺影に飾った。