ニュースが減っている、と首を傾げるのは、わたしだけか?
「収束」が見えないにもかかわらず、原発のニュースが減っている。
けれど、その間にも福島で暮らすひとびとは、特に子どもは、
3・11以前とは全く違う空気の中で、ご飯を食べ、歩き、走り、笑い、泣き、親の胸に飛び込む。
飛び込まれた親は、未決のままの、未処理のままの、
数々の情報の中で、ひきつった笑顔を作りながら、空を仰ぐしかないのか。
去年と同じ夏空が頭上には広がる。去年と同じでありながら、まったく
違ってしまった夏空は、去年と同じ、けれど去年とは違うムースのような夏雲を
浮かべている。
福島の学校で、生徒たちにマスクをすること、できたら長袖を
着用することをすすめたひとりの教師が退職した、という。
不安を煽った、という理由で、居づらくなったことが理由であるらしい。
こうして、言い知れぬ恐怖の中にいる人々が二分されていく。
対立させられていく。
本来、手をとりあえるひとたちが。
本来、同じ方向を見つめることができるはずのひとたちが。