敬老の日だ。
いまもって長い間暮らしてきた福島に帰ることができず
(16万人のかたがたが帰ることができないでいる)、
その悲しみを言葉にすることもためらわれ、
下のまぶたで涙を堰き止めるために、空を見上げるお年寄りがどれくらいいるだろうか。
母を見送った夏が去り、いま5度目の秋。
新刊の拙著『自分を抱きしめてあげたい日に』(集英社新書)の前書きにも書いたが、
詩人長田弘さんのこのフレーズが、今日はひときわ高く、心の中で鳴り響いている。
……ことばって、何だと思う?
決してことばにできない思いが、
ここにあると指さすのが、ことばだ……。
……一人のわたしの一日の時間は、いまここに在るわたし一人の
時間であると同時に、この世を去った人が、いまここに遺して
いった時間でもあるのだ……
……亡くなった人が遺してゆくのは、その人の生きられなかった
時間であり、その死者が生きられなかった時間を、ここに
在るじぶんがこうして生きているのだ……。
(長田弘『詩ふたつ』花を持って、会いにゆく 人生は森の中の一日)クレヨンハウス刊より
『自分を抱きしめてあげたい日に』は、去年の3月11日以降、
折に触れて読み返し、時には声にして読んで、
わたしを支えてくれた「ことば」たちの紹介と解説めいたものを綴ったものだが、
「決してことばにできない思い」を心の奥底で抱きしめながら、
しかし一方では、「ことばにしなければならない思い」もしっかり素手で握っていこう。
昨夜は時間調整に成功。東京新聞「こちら特報部」デスクの田原 牧さんと、
福島原発告訴団副代表の石丸小四郎さんのシンポジウム「原子力ムラの責任を問う」に参加。
田原さんの問題提議「もういちど、フクシマへ」に、そうそうホントにそう、
わたしがこのところ感じていたことと一致して感動。
東日本大震災から一年と六か月余。
わたしたちは、この「状態」に慣れてはいけない。
汚染状況に鈍感になってはならない。
そしていまも、苛酷事故の現場で黙々と作業を続けるひとたちを忘れてはならない。