9月1日の夜は、久しぶりに「セプテンバーソング」を聴いた。
いまやスタンダードナンバーになっているこの曲、
もともとは映画の主題歌ではなかったろうか。
♪ 5月から12月までは長い長い日々がある。
けれど9月になって、木の葉が色づきはじまると、
10月、11月、そして12月。月日は残り少なくなって……♪
この残りの日々を、あなたと共に過ごしたい、というようなラブソングだ。
毎年、8月末か9月のはじまりの夜にしばしこの曲を聴くのが、
夏を見送り、秋を迎えるわたしのささやかな儀式なのだが、
去年はそんな余裕などなかった。
8月31日、ちょっと体調を崩して、
夜遅くなりそうな約束を延期させてもらったので、
夜はこの唄を聴いた。
この歌の中で、9月、10月、11月と「今年」の残りの日々をカウントしているように、
一体、わたしたちが暮らすこの国はいつまで、
「いままでの暮らし」を続けようとするのだろうか。
福島第一原発のあれほどの苛酷事故を「体験」しながらも、
これほどまでに「民意」は原発はいらないと叫んでいるのに、
それが届かない無念さ、悔しさ。
南海トラフの被害想定可能な地図が発表されているが、
あの地図の中に幾つ原発があるのか。
被害想定地域に入っていなくとも、稼働していなくとも
原発は現にこの日本列島に54基あるのだ。
そのことと、予想される大地震を重ねて考えられないとすると……。
まだ何ひとつ片付いていない福島第一原発の「体験」を
どう位置付けたらいいのだろう。
わたしには、到底理解できない。
「体験」が意味があるのは、その体験から何を引き出し、
何を引き受けたか、にあるのだ、とわたしは考える。
福島の18歳未満の子どもたちの36パーセントに
甲状腺の「しこり」があるという発表を、
わたしたち大人はどうとらえるのか。
発表によると、「良性」というが、
「良性」であったとしても、どれほどの心理的負担であるだろう。
18歳未満の子どもたちは、
原発を一度たりとも選択していないのだ。
生まれてきたところに、原発があり、それが事故を起こしたということだけだ。
「セプテンバーソング」で幕開けしたこの9月も
走り続けるしかないようだ。
今日は島根にいる。