沖縄から帰京。
いつもそうなのだが、沖縄を訪れると、そして美しい海や
ハイビスカスのあざやかな色の南の花を見ると……。
さらに穏やかな口調と穏やかな表情のかの地の人々と
お話しをするたびに……。
この人々の、長い忍従と犠牲の上に、
わたしたちは暮らしてきたのだと痛感する。
今回の取材は主に、頭上をオスプレイや偵察機が飛ぶ、
保育園の日常についてだった。
4月28日の「主権回復」の式典を前に、
基地のフェンスや周辺には「主権回復」ではなく、
「屈辱の日」の文字が風にはためく。
確かにそうだ。
穏やかな人々をこれほど憤らせることを
この国の政府は、そして米国はしているのだ。
保育園取材のあくる日、思い立って基地のゲートに行ってみた。
そこで抗議行動をしているひとたちが
今朝もいるかもしれない、と聞いたからだ。
ウィークデイの朝8時45分。
数人の女性と男性が、オスプレイNOと書いた紙を手に
すでにゲート付近にいた。
ゲートを守るのは、沖縄県警である。
「落合さん、昔、雑誌に原稿を依頼したことあるんですよ」
そんな風に声をかけてくださったひとりの男性は70代。
定年を迎えてから、沖縄に移住されたという。
学校の教師をされていたという女性は繰り返す。
「また戦争をしたいのでしょうか、この国は。
基地にもオスプレイにも反対ですが、基地に居る
まだ10代の兵隊を見ると……いろいろな問題を
起こしている兵隊もいますが……多くは、何も知らない、
知らされていない若者です。彼らをもまた、
戦争に巻き込みたくないと心から思います」
抗議行動を続ける人々はお昼すぎに、
次のグループと交代して、日々休むことはない。
平日ということで、人数も少ないが、
広い道路を行きかう車にも丁寧に手を振るひとたち。
車の運転台から手を振り返してくれるひとたちも多い。
沖縄も福島も、
ある地域の人々とその暮らしを犠牲にすることに
痛みを感じないやりかたは同じだ。
見てきたこと、感じたこと、考えたことを、さ、
原稿をにまとめなくては。
チェルノブイリ原子力発電所事故1986年4月26日1時23分(モスクワ時間)
あれから27年。