2013年3月12日火曜日

3月12日

3日間に渡って続いた反原発の集会&デモが
昨夜の品川「きゅりあん」の集会で終わった。
次の集会は6月と聞いているが、わたしたちの闘いの日々は続く。
確かに、けれど焦らずに、反原発の日々を歩んでいこう。

以下、昨夜の閉会の辞を。

このところ、わたしの内側で響いている言葉をまず紹介します。
ジークムント・バウマンの『リキッド・モダニティ液状化する社会』(大月書店)
に記されたフレーズです。
「社会は危険と矛盾を生産しつづける一方、
それらへの対処は個人に押し付ける……」

そんな社会に、わたしたちは暮らし続けています。
先のフレーズの「社会」を「国」に言いかえることも可能です。
原発事故に伴い避難やストレスによって亡くなった、
原発関連死と、悲しくも無念な言葉で呼ばれる死も増えています。
その上、昨年の9月に続いて、2月13日にはさらに二人の子どもの甲状腺がんと、
ほかに7人のお子さんも疑わしい状況にあると判明したという発表がありました。

ところで、丸2年がたって、一体、何が変わったでしょうか。

廃炉は決まったのでしょうか。
原発輸出は禁止されたのでしょうか。
福島で暮らす子どもたちは安心して外で遊べるようになったでしょうか。
いいえ。
2月にあった集まりに来られた女性たちは、
集会のあったすぐ外の公園でも線量が高くて
子どもを遊ばせることはできないと嘆いていました。
離れ離れに暮らす家族がもう一度一緒に暮らせるようになるのはいつのことでしょう。
叶うとしたら、それは、いつ、どこで叶うのでしょうか。

1月末の南相馬、小高(おだか)区。雪はいったんやんで、
青空が見えるまだ早い土曜日の午後。
かつては150軒もあったと言われる商店街で、店が開いていたのは、一軒、理容室だけでした。

長年原発を推進してきた自民党が、政権第一党です。
円安株高、経済優先で浮かれている経済界がいます。
「安全が確認された原発を再稼働させる」とこの政権は言明しました。
米軍の普天間基地の辺野古への早期移転を決めると言明している政府です。
防衛費は増え、福祉は削られ、オスプレイは日本中を飛べるようにしているのです。
憲法改悪を国民的議論に高めようと発議しているのが、この政権第一党です。

3・11この日だけを、時計の振り子を戻す「記念行事の日」にしてはならないのだ、と私は考えます。
この国の歴史は、いつだって無この市民の悲しみと喪失と憤りを置き去りにしたまま、
見せかけの、繁栄を築いてきたのです。
福島第一原発事故に関して、この「置き去り」を決して適用させてはならないと思います。
9日の集会デモ、昨日10日の首都圏反原発連合の集会デモ、そして今夜のこの会。
この3日間、私はある意味ではとても居心地よく過ごしています。
何かに反対を唱えるものが、同じ考えや志を抱き集まる時空はとても気持ちがいいものですから。

しかし、それだけでは自民党を第一党にし続けてしまうのです。
イラク戦争から10年。自己責任という言葉がこの国を席巻したことを思い出しましょう。
恐ろしい言葉です。
本来責任をとるべきものが逃げて、責任があるのはおまえだと市民に転嫁するやりかたです。
原発に関しては、そして原発事故に関し、市民に責任があったとしたら、
それはより知ろうとしなかった責任、無関心という責任です。
しかし、その責任ゆえに、私たちは本当に責任あるもの、
国策として原発をすすめてきたものたちへの責任を追及する手を緩めてはならないはずです。
第二次世界戦争の敗戦がそうであったように、
「一億総ざんげ」で、終わらせてはならないはずです。

お報せがあります。
9日の「さようなら原発」の集会&デモで逮捕がありました。
そのおひとりがすぐに釈放とお聞きして安堵していましたが、もうおひとりは逮捕されたままであることを、
そのお友人からクレヨンハウスにご連絡をいただき、今朝知りました。
心臓疾患やインシュリンの治療を受けているかたで、とても心配でしたが、
さきほど釈放され、その足でこの会場においでいただき、先ほど、お目にかかることができました。

デモはわたしたちの権利であるのですが、取り締まりは今後より一層厳しくなってくると思います。
注意をしましょう。

今日3月11日を、時計の振り子を戻す「記念の行事」にしないことを自分と約束して、
閉会の辞とさせていただきます。

 昨日、わたしは逮捕されたTさんのことで、あちこちに電話をし、
「こちら特報部」の田原 牧さんからも貴重なアドバイスをいただいた。
その間にもう一本、別に気がかかりなことがあって、電話をかけていた。

ブログはむろんのこと、コラムなどでもご紹介してきた双葉郡大熊町の佐藤祐禎さん。
農業をされながら、長年、短歌を詠まれ続けた佐藤さんを知ったのは、
いりの舎から刊行された歌集『青白き光』を通してだった。
お手紙をいただいたこともあったが、昨年の秋に倒れられ、
意識不明のままであることは、前掲のいりの舎のかたからお聞きしていた。
丸二年を迎えて、どうされているか、とても気になって昨日電話をした。
そうして、12日夕、亡くなられというご連絡をいただいた。
お目にかかりたかった。
本当に悔しい。

・反原発のわが歌に心寄せ来るは大方力なき地区の人々
『青白き光』より)