2011年9月4日日曜日

9月4日

福井に行ってきた。
飛行機で行く予定だったが、
台風の余波で欠航もあり得ることを考えて、急遽陸路で行くことにした。
東京駅から新幹線で越後湯沢に出て、
越後湯沢から「はくたか」に乗り換えて富山入り。

荒れ模様の天気だったが、大勢の方が集まってくださった。
10年前にも、同じ会場で話をしたことがあり、
そのとき担当をされた女性が、会場である富山県民共生センターの
いまは館長さんになっておられた。
時に遅々とした歩みに思える「男女共同参画社会」も、
ささやかながら確かな足取りでこうして進んでいるようで嬉しい。
奴隷と王さまだって、ひとつの社会に「共生」はできる。
差別を積み残したままの「共生」にどんな意味があるのか、
という疑問は依然存在するのだが、できることは、
それがなんでもやったほうがいい。
雨の中、こんなにも多くの女性(男性は団塊の世代以上とお見受けした)が集まり、
さまざまなテーマ(といっても、いのちと人権が基本だが)をともに考える……。
それはやはり大きな「前進」だと捉えたい。
話を終えた後、何人かの女性から
「9月19日の1000万アクション、上京します」と声をかけられる。

帰路は飛行機で。ずいぶん揺れた。
この台風で行方不明になられたかたも少なからずでている。
自然はわたしたち人間を大きな懐でHUGしてくれる一方、
時に人間など抗することのできない刃をむく。
その自然を手中に収めたがごとき幻想と錯覚の上で、 
わたしたちが文明と呼ぶものは「進化」してきた。
というか、進化したと思いこんできた。
次はどこに大地震が?
次はどこに大津波が?
次は? 次は? と怯えて暮らす人生が、
わたしたちの「進化」のあかしなのか。

オーストラリアの女性小児科医、ヘレン・カルデコットさんの
あの「茹でカエル」の話を、
羽田からクレヨンハウスに戻る車中で噛み締める。
熱湯に放り込まれたカエルはその熱さに外に飛び出して助かるが、
水を入れた鍋に入れられたカエルは、鍋ごとガスにかけられ、
水がやがては熱湯になっても、それに慣れて(慣らされて)
茹で上がってしまう、というあの話だ。彼女を思い出したのは、
昨日このブログで紹介したイギリス、インディペデント紙が報じた
「フクシマ」のこれからという記事に彼女の名前を見つけたからだ。
あの日から、まもなく6か月。
わたしたちは「茹でカエル」状態になっていないか?
日が短くなった。
短くなっていく日に合わせて、何かを選びなおすプロセスをはしょってはならない。