2011年5月15日日曜日

5月15日

朝日厚生文化事業団主催、「認知症」についてのシンポジウムを終えて、
このブログを書いている。
「住み慣れたところで最期を」というメインタイトルがついていた。
4年前に見送ったわたしの母も、パーキンソン病とアルツハイマー病を併発した認知症だった。

3月11日以降、ずっとわたしの心を離れないのは、何度もこのブログに書いている、原発の暴走による被曝の問題(特に子どもは放射能の感受性が大人の5倍とも言われている)。そして、被災地の介護を必要とするひとたち、認知症のひとたち、この社会が「障がい」と呼ぶものがあるひとたち、定期的なリハビリや人工透析等を必要とするひとたちのこと。言ってみれば、社会的に「声の小さい側」にあるひとたちの存在だ。

介護保険のスタートとほぼ同じ時期に発症した母は、介護士さんたちの助けも借りながら、在宅でおよそ7年の日々を過ごした。
認知症が進むにつれて、母は言葉も失った。
食事も排泄も着替えも、部屋のなかを10センチ移動するだけでも……やがて母は自分の日常のすべてを、他の誰かの手にゆだねるしかなくなった。
何を望み、何を求め、何を拒否しているのか、何を快いと感じ、何を不快とするかも、わたしは、そして介護の手助けをしてくださるひとたちも、母の表情や、いままでの人生のあれこれから推察するしかなかった。そのためにも、推察の、キイパーソンが必要だった。あらゆる意味で、「彼女」が「彼女」でありつづけるために。
どれかひとつが欠けても、「彼女」は「彼女」でありつづけることはできなかったのだから。
娘のわたしが完璧に、そのミッションを遂行できたわけではない。悔いはいまでも山ほどある。
しかしもし母がいま「ここ」にいて、そして、「ここ」が被災地だったら……。
そうして娘であるわたしがいまもって行方不明になっていたら……。
介護士さんも被災されて、通うことができなくなったら……。
そうなったら、どうなるのだろう。想像するだけで、息が詰まる。

住み慣れたところで、と望みながら、見知らぬ病院に「収容」された認知症のひとは、自らの環境の変化に、どのように対応したらいいのだろう。
不安と不穏と不可解な変化に戸惑うばかりではないだろうか。

震災関連死と呼ばれるものが増えているという。