5月5日、こどもの日。
こんなに悲しく、こんなに胸が痛むこどもの日が、昨今、あっただろうか。
それぞれの子どものいのちを、子どもの将来を、子どもの人生を、
この社会のほとんどすべてを決定する「支配層」は、どのように考えているのだろう。
「少子化」社会を憂える彼らにとって、それぞれの子どもは独立した存在、人格であるより、将来の生産性をあげるための道具でしかないのか。道具は、「壊れれば」新しいそれに取り替えればいいのか。
子どもは,子どもの権利条約に記された独立した人格と人権を有した、なにものにもかえ難い存在ではなく、この「弱肉強食」の社会を底辺から支える明日の「歯車」でしかないのか。
第二次世界大戦中、まずは東北の寒村の若者が次々に兵隊にとられていったように。そして、いのちを奪われていったように、「数」だけで、カウントされる存在なのだろうか。
被災地の、それぞれの子どもの、顔が見えない。声が聞こえない。
子どもの思いがなかなか伝わってこない。
テレビカメラを向けられれば、子どもは、カメラが求める姿や表情を察して、反射的に「そうする」だろう。
それを、「元気で健気で、むしろ大人を励ます被災地の子どもたち」と括ってしまうのは、子どもを表面だけでしか見ていないことにはならないか。子ども自身さえも気づかない、深い傷に蓋をさせてしまうことに役立つだけではないか。
そうして、福島の子どもである。
何度もこのブログに書いているように、4月19日に決められた、年間被曝量「20ミリシーベルト」の撤回を求める再々度の交渉が、5月2日、参議院会館で行われた。
わたしは仕事で参加できなかったが、当編集部のスタッフが参加した。
「福島の子どもたちを放射能から守れ」という手書きで大書された紙を背に、厚生労働省がおよそ30分、文部科学省と原子力安全委員会がおよそ1時間30分。
結局は、「20ミリシーベルト」と決めたのが「どこ」なのか、誰なのか、責任の所在はうやむやのまま、終了しただけだったという。
第一回目の交渉のときにもブログに書いたが、正式な会議なし、決定の過程は不透明、議事録もなし、という形で、しかし発表されたそれは、一人歩きをし、福島の子どもたちに摘要されているのだ、今日もまた。
これが、わたしたちが暮す国の、暗澹たる「現実」であるのだ。
もし、そこにいるのが「わが子」であっても、彼らは「20ミリシーベルト」なら問題なし、と言い続けることができるのか。
撤回交渉の話し合いの席には、テレビカメラも入っていたようだが、このうえなく杜撰な、けれどいのちにかかわる「数値」についての話し合いを、じっくり報道した番組があっただろうか。
多くのわたしたちは、知らないまま、知らされないまま、「今日」を見送り、「明日」を迎え、そうして「異常事態」そのものにも、やがては徐々に慣らされ、慣れていってしまうのだ。
「………子どもは、今日を、今を生きている。子どもの血肉はいま作られている。その子どもに明日まで待て………というのは大いなる誤りだ」というようなことを書いたのは、チリの女性詩人であり教育者であり外交官でもある、ガブリエラ・ミストラル(1889ー1957)である。
1945年南米初のノーベル文学賞受賞者である。
福島の、それぞれの子どもの、血肉も、まさにいま、作られているのだ。
なんという、なんという「こどもの日」だろうか。