SPEEDI(スピーディ、緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)
については、以前にも書いた。
巨額を投じながら、なぜわたしたちに予測図を発表しないのか。
なぜ隠しつづけるのか。隠さなければならない根拠はどこに、何にあるのか、と。
「こんなこと」は起きてはならないのだが、「こんなとき」の「こんなこと」のために、それはあるのではないか、と。
SPEEDIの予測は、ようやく今月になってからかなりが公開されるようになったが、それにしても奇怪なのは、原子力安全委員会による発表が、今でも一日遅れであることだ。一日遅れの「予測」である。それは「予測」ではないだろう。
事故直後にSPEEDIの予測が発表されていれば、先月も半ばを過ぎてから「計画的避難区域」とされたところの住民は、もっと早くに避難できたはずだし、少なくとも自分たちが置かれている現状について考え、選択決定する余裕はあったはずだ。
「………原子炉内の高線量区域に相当する値なのに、地元の人は何も知らずに暮らしていた。放射能汚染に対する準備はゼロだった」(東京新聞 5月24日『こちら特報部』。京都大学原子炉実験所・今中哲二助教のコメントより)。
本当に酷い。酷すぎる事実だ。
こういった隠蔽に対して、何が、とか、どこが具体的には指摘できなくとも、多くの市民は、この情報隠しをすでに知っている。
悲しく無念なことなのだが、何か、どこかで「隠しているはずだ」と。だからこそ、「風評被害」が起きるのだ。
テレビカメラの前で何を食べてみせたところで、「あなた」たちの不誠実な姿勢が風評被害を産んでいるのだ、と自覚すべきだ。
せめて、せめて、それくらいの誠実さを持ち合わせてみたら、どうだ。
それでは、自民党が現政権だったら、と考えてみる。彼らはどうしただろう。
住民のいのちと暮らす権利に関して、もっと真摯だったろうか。
情報を誠実に発表しただろうか。何かを隠したりしなかったか。
そう考えると、自民のほうが「まし」とも思えない。
それでは、どの政権だったら? どの政党だったら? わたしは、……既成のどの政党も心底、信頼と共感を抱けないでいる。こっちよりあっちのほうが、少しは信頼できる、といった程度ではないか、という実に惨めな結論に達してしまう。それがわたしだけのペシミズムであるなら、いいのだが。
原子力行政というのは、何もかも隠さないとスタートできなかったのだ。スタートしてからも、何もかも隠さないと続けられなかったのだ。そして、こんな事故が起きてさえ、いまもって隠し続けているのだ。
昨日も、福島の住民たちが校庭の線量上限「20ミリシーベルト」撤回を求め、文部科学省を訪れた。大臣との面談は実現しなかった。
そして、福島第一原発の1・2号機は、従来言われてきた大津波が到達する以前、地震で冷却に必要な水配管が損傷していた事実が、東電の公表資料から判明。
「大津波」を理由とすることに、わたしは以前から懐疑的だった。地震から目を逸らすことに役立つからだ。
しかし、大津波以前から冷却機能に損傷があったとしたら、そしてそれが暴走の第一次の理由だとしたら、どんなに堅牢な防潮堤をつくったところで、大した意味はないといえないか。
いったんは停止となった浜岡原発(防潮堤ができたら再開と首相明言)も、いや、この地震列島の上にある、原発すべて、がである。
それらをオブラートに包み込むために、「大津波」原因説が主流になっていたのではないかと、悲しいことに、ここでも懐疑的にならざるを得ないわたしがいる。
この国の、この対応をみていると、である。
国会議事堂の堅牢な「建屋」の中で、一体、あなたたちは何を守ろうとしているのだ。
うんざりだ。