緊急増刊『朝日ジャーナル』、「原発と人間」は、とても心に響く一冊である。心にすとんと落ちる、とも言える。
それぞれの執筆者は数値やデーターや表を駆使しながら、
原発の「いま」と、これからわたしたちが向かうべき未来について描いておられる。
が、多くのテレビの情報番組の中での解説のように、数値だけがひとり歩きして宙に浮かず、しっかりと心に根づく理由は、それぞれの執筆者ご自身の、確かな生きる姿勢がそこにあるからだろう。
重ねてきた人間としてのキャリア、こうありたいと願い、こう生きてきた「自分」、そして他者とのゆるぎない関係性が、それぞれの執筆者が紡ぎだされる言葉の背景と土台にあるからだろう。
失礼なものいいになるのではないかと不安だが、それぞれの執筆者の、人としての品性、DIGNITYのようなものさえ感じる文章である。そこにあるのは、垂れ流される「情報」ではなく、確かな「哲学」である。
この社会とこの時代に必要なのは、もしそう呼んでよければ、「哲学」ではないかと常々考えてきた。哲学者のための哲学ではなく、机上のレトリックでもなく、生きる上の根っこのような哲学である。
哲学者・高橋哲哉さんは「原発という犠牲のシステム」というタイトルで寄稿されている。
その中に次のようなフレーズがある。全文を読まれることをぜひお薦めするが。
……少なくとも言えるのは、原発が犠牲のシステムである、ということである。(中略)犠牲のシステムでは、或る者(たち)の利益が、他のもの(たち)の生活(生命、健康、日常、財産、尊厳、希望等々)を犠牲にして生み出され、維持される。犠牲にする者の利益は、犠牲にされるものの犠牲なしには、生み出されないし、維持されない……。その後に続く、「無責任の体系」(丸山眞男さんいうところの)の記述も心にしみる。
高橋さんは次のようなフレーズで原稿を終えられている。
……問題は、しかし、誰が犠牲になるのか、ということではない。犠牲のシステムそのものをやめること、これが肝心である。
原発だけではない。誰かが誰かの、誰かが何かの犠牲の上に成り立つシステムを抱えこんだ社会(大小さまざまなこのシステムが重なり合い、絡み合った社会にわたしたちは生きている)は、そこに暮らす人間は決して、幸せにはしない。欲望に支配され、欲望に所有されたものが牛耳るこの社会とこの時代の、最も醜悪で酸鼻な「いのち」と生きる権利への侵害が、今回の原発暴走だと言える。
収束など果たしてくるのかと考えさせられる福島第一原発の暴走以降、今も尚、「捨て場のない」、「どこにも持っていけない」核のゴミをつくり続けている、わたしたちがいまここにいるのだ。
最近声をあげて笑ったのは、いつのことだったろう。