土曜の朝の教室。今回の講師は、
東京新聞「こちら特報部」のデスク、田原 牧さんだった。
メディアについて、興味深い話を多々うかがえたが、
個人的に最も印象深かったのは、
多くのわたしたちの内に潜む、「異端」になること、
「異質」と思われることをおそれる気持ちについて
触れられたところだった。
この社会で、この時代で、異議申し立てをすることは
容易なことではない。
その、掌にのせてみることも、匂いを嗅ぐことも、
触ることも見ることもできない(なにかと似ているが)
「異端になることへの不安」、
「異質と位置付けられることの恐怖」が、
私たちに沈黙を強いてきたのではないか。
改めて、そのことを自らの中の不安や恐怖と対峙したいと痛感。
大きな流れに逆らうとき、わたしはいつもこう自分に言い聞かせてきた。
「あなたが想像するほど、だれも、あなたを見てやしない」と。
また、エネルギーシフトがいま盛んに論議されていて、
それは当然だが、だからといって、
国策としてきた国や東電への責任追及を放棄してはならない………。
田原さんはそんな風にもおっしゃっていた。
その通りだ。
「卒」とか「減」といった流れの中で、
さらに次なるステップ、エネルギーシフトの論議のもとで、
責任問題が曖昧にされることは、大きな問題である。
同じ悲劇を繰り返されないためにも、
わたしたちは「責任の行方」をしっかり見定めていたい。
30日の東京新聞朝刊。
時事川柳の欄に次のような川柳が載っていた。
わらが吸い童が吸わぬ道理なし
稲ワラが吸った放射能を、童、子どもが
吸わないはずはない。
無念なことに、そうなのだ!