2011年7月30日土曜日

7月30日

土曜の朝の教室。今回の講師は、
東京新聞「こちら特報部」のデスク、田原 牧さんだった。
メディアについて、興味深い話を多々うかがえたが、
個人的に最も印象深かったのは、
多くのわたしたちの内に潜む、「異端」になること、
「異質」と思われることをおそれる気持ちについて
触れられたところだった。
この社会で、この時代で、異議申し立てをすることは
容易なことではない。
その、掌にのせてみることも、匂いを嗅ぐことも、
触ることも見ることもできない(なにかと似ているが)
「異端になることへの不安」、
「異質と位置付けられることの恐怖」が、
私たちに沈黙を強いてきたのではないか。
改めて、そのことを自らの中の不安や恐怖と対峙したいと痛感。
大きな流れに逆らうとき、わたしはいつもこう自分に言い聞かせてきた。
「あなたが想像するほど、だれも、あなたを見てやしない」と。
また、エネルギーシフトがいま盛んに論議されていて、
それは当然だが、だからといって、
国策としてきた国や東電への責任追及を放棄してはならない………。
田原さんはそんな風にもおっしゃっていた。
その通りだ。
「卒」とか「減」といった流れの中で、
さらに次なるステップ、エネルギーシフトの論議のもとで、
責任問題が曖昧にされることは、大きな問題である。
同じ悲劇を繰り返されないためにも、
わたしたちは「責任の行方」をしっかり見定めていたい。

30日の東京新聞朝刊。
時事川柳の欄に次のような川柳が載っていた。

わらが吸い童が吸わぬ道理なし

稲ワラが吸った放射能を、童、子どもが
吸わないはずはない。
無念なことに、そうなのだ!