来年の仕事の予定が決まっていく。
それはいつものことなのだけれど、ふっと不安になることがある。
誰もが有限のいのちを生きているわけで、来年の今頃、
わたしは元気でいられるだろうか。なんの保障もないし、
誰も保障できないことだ。
このところ同世代や、時にはわたしよりはるかに若いひと
の入院や手術、加療の報せが相次いでいる。
それに、この社会、この時代である。次はいつどこで大きな地震が起き、
次はいつどこで原発の暴走が起きるやもしれない、という恒常的な不安もある。
そういった不安を単なる考え過ぎ、という言葉で蓋をする向きもあるが、
ひととして、ごく自然な不安である。
福島のひとたちの中には、いま目の前にある不安さえも充分に言葉にできないような、
言葉にすると、過剰反応だと非難されるという、新しい不安を抱えているひともいる。
「過剰反応」という言葉で、くくってしまおうとしているひとたちの中にも、
悩んで苦しんで、悩みぬいた末に、苦しむことそれ自体に疲れ果ててしまい、
その結果、「いまは考えたくない」というひともおられるだろう。
第一原発の現場に向かう、息子や夫をただただ見送るしかない母や妻がいる。
今朝、下痢をした子どもに、胸しめつられる思いを抱いている母がいる。
「なんでもないわ、この子はすぐにおなかこわすんだから、と不安を打ち消そうと
するのですが……。でも、酷い。わたしたちは生きている限り、ずっとずっと
この不安を抱きつづけなければいけないのです」
この切実きわまりない「叫び」に、国は、社会は、わたしたちひとりひとりは
どんな答えを持ちうるのか。
「さようなら原発」署名、改めてよろしくお願いいたします。
生まれてきたら、そこに原発があった……。ぼくたちは一度もそれを選んではいないのに。
それが、子どもたちの「現実」であるのだから。