2011年4月4日月曜日

4月4日

わたしたちは3月11日に、新しい誕生の日を迎えました。
喪失と悲しみに充ちた誕生日です。

「re」という接頭語が、英語にはあります。「……し直す」という意味です。
わたしたちは考え直し、捉え直し、見つめ直し、構築し直すことが、いま必要ではないでしょうか。
甘庶珠恵子さんの、あの本のタイトルを借りるなら、まさに「まだ、まにあうのなら」(地湧社)ですが。

「弱肉強食」の社会、より多く持っているものと、
より少なくしか持てないものが「分断される社会」、「優劣をつけられる社会」、格差社会のありかたそのものを、わたしたちは果敢に問い直していかなくてはなりません。
まだ、まにあうのなら。

今回の未曾有な自然災害の現状をさらに酸鼻にした原発そのものを、わたしたちは考え直さなくてはならないでしょう。

わたしは、福島原発10機の即刻の廃炉を求めます。
今回のような大地震や大津波がなくとも、この地震列島に、そもそも原発は可能だったのか。
いまは被災者への支援が優先であることは言うまでもありませんが、「安全神話」が完全に崩壊したいまこそ、わたしたちは{re}の思想と姿勢で、持続可能で、真実、安全な、暮らし方を再構築していくことが、この大災害から学ぶべきであり、それが市民であるわたしたちの「責任と権利」ではないかと考えます。
自然災害がなくとも、老朽化した原発は危険です。新しいものでも、原発は危険なのです。
こういった考えを「非科学的」としたひとたちが、原発を推進してきたのです。
コストが安く、クリーンで、CO2を排出しないのが原発である、と。
ウラン採掘の時点からCO2は排出しているにもかかわらず、です。
その結果が、わたしたちの「いま」なのです。

「絶対」などあり得ません。
いつの時代でも、どの社会でも、「絶対」を喧伝してきたのは権力者であり、
その「絶対神話」が崩壊したとき、最も苦しむのは市民です。
危険な放射能物質を放出し続ける原子炉で、いのちをかけて作業されている方々には心より感謝します。ご家族の思いはいかほどでしょう。
しかし、本来、彼らは「そこ」に居てはならないのです。
こんな生命がけの作業を、誰かにさせてはならないのです。
彼らは、「ヒーロー」になってはならなかったのです。

わたしたちと同じ志の仲間、福島で有機農法に長年取り組まれ、
素晴らしく見事な野菜を作り続けてこられたかたが、自死されました。
誰よりも土と会話してきた彼にとって、
土はすでに「会話」のできる存在ではなくなっていることに気づいたのでしょう。

すべての、それぞれの「いのち」のために、祈りましょう。
同時に、祈っているだけでは社会は変わりません。
{re}の思想と姿勢と実践を、いま、ここから、
「あなた」から、「わたし」から考えていきましょう。

スリーマイル島の原発事故以来、わたしたちは上映会や、わたしたちが編集している育児雑誌『クーヨン』を通して「脱原発」のささやかな活動に取り組んできました。
この数年間、わたしたちも年を重ね、力不足になっていたことも確かです。

いまこれを書いているわたしは66歳です。
充分と言いきれなくとも、ここまで生きられた、生かされてきた、という実感があります。
たとえ何があっても,受け止める覚悟はできています。
けれど、小さな子どもたちを見ると、その愛らしい盆の窪や、膝頭を見ると……。
こんな大惨事は二度とごめんだ、と叫びたくなります。

日本には54機の原発があります。わたしたちはこれからもずっと
「次はどこか?」と怯えながら恋をし、子を産み、育て、介護や看護を続けていかなければならないのでしょうか。それを、「日常」と呼ばなければならないのでしょうか。
ドイツでは脱原発の25万人デモが行われました。

繰り返しますが、いますべきことのすべてに人事を尽くしつつ、
けれど、一方で考えていきましょう。
まだ、まにあうのなら。