なれるのがこわい、なれてはいけない、と昨日のブログには書いた。
それはわたしの、わたしへの指示であり、要求である。
不安や不穏や不信や憤りを心の真ん中に抱えて暮らしていくのは、
辛いことであり、疲れることでもある。
特に、異議申し立てを自分の核に据える暮らしは辛く、疲れる。
だからわたしたちは往々にして、それも無意識に、
それらから目を逸らそうとする。
しかし、今回は目を逸らしてはならないのだと思う。
忘れてはならないのだと思う。
どんなに疲れても、どんなに辛くとも、わたしは、見据えていく、
この現実を、丸ごと。余すところなく。
それもまた、わたしの、被災されたかたがたへの
ミッションのような、責務のような。
福島第一原発でつくられる電気を主に使ってきたのは、
首都圏に暮らすわたしたちなのだから。
いろいろなところで書いてきたが、この構図は、
沖縄の基地問題と、とてもよく似ている。
この国にある米軍基地の75パーセントが沖縄にある。
つい先日、沖縄に行ってきた。
校舎の上を飛ぶ米軍機を見て、ああ、こうして、わたしたちは
暮らしてきたのだ、沖縄のかたたちと、
その地に基地を押しつけて、と再確認した。
誰かの便利のために、誰かが不便や不幸を背負う暮らしはやはりおかしい。
広瀬隆さんの『東京に原発を』というパラドックスはそれゆえ有効なのだが。
おおかたのメディアも原発の「いま」より、
「復興」に、と取材をシフトさせているような。
いたずらに「煽る」のは問題だが、不安から強引に目を背けさせるのも、
「煽る」ことと同根の、誠実さの欠如とは言えないか。
東京新聞の「こちら特報部」が、本当に頑張っている、踏ん張っている。
デスクからひとこと、という小さな囲み記事の中に、
ひとりひとりの生活者でも当然あるデスクの苦悩や憤りやため息が垣間見える。
こういった「体温」を感じる文章に接すると、うれしい。
ファンレターを書きたいほどだ。