・・独占を拓かなければ・・
東京は快晴の日曜日。
代々木公園のアースデイは盛況。
クレヨンハウスも、大勢の家族連れで賑わっている。
光の中で、子どもが笑っている。
泣いている。
まぶしげに目を細めている。
若い父親の腕の中で、なにかしきりに訴えている。
母親の膝の上で飛び跳ねている。
子どもは、わたしたちの未来形の夢の形だと、つくづく思う。
今朝、出がけに見たテレビでも、被災地「復興」が大きなテーマとして議論されていた。
被災地に進出した企業を無税とし、民間企業が被災地にどんどん出て行くような「特区」として復興を図る…。といったことが議論されていた。
それは賛成だが、大きな原因のひとつである原発そのものについての言及はあまりないようだった。
いま、福島第一原発の危機が「回避」できれば、(それ自体、かなり難しい状態にはあるが)、それでいいのか。ほかの原発は、そのままでいいのか。
同じような危機が、ほかの原発(この国に54基もあるのだ)で起きないという保証を、誰がどのようにするのか、いや、できるのか。誰もできやしない。
原発の存廃についての議論をさけるメディアの責任を、メディアで生きてきたひとりとして考えたい。また、そのことに疑問を持たないことが、54基まで原発をつくった日本の問題なのだ。
そもそも、電力を作る側、送る側、売る側が、ほぼ「独占」させてきたこの現実こそ問題だった。真実、持続可能な、安全な電力を「買いたい」と願っても、わたしたち消費者が選べない現実をまず変えなくてはならないのではないか。
現行の政・官・財業・学・そして一部メディアの「癒着」を解体しない
限り、福島第一原発と相似形の危機を、わたしたちは同時に「買い続ける」ことになる。
去年の秋に種子を蒔いた、わたしが大好きなロベリアが、小指の爪よりも小さな藍色の蝶々形の花をみっしりとつけていることを今日はじめて知った。
亡くなった母が大好きな花だった。