「復興」の声のもと。
消されていく悲しみはないか。
踏まれていく憤りはないか。
握りつぶされていくせつなさはないか。
置き去りにされる苛立ちはないか。
ひとつの社会に集う、ほとんどすべてのひとに
災害がのしかかる。
ほとんどすべてのひとは、被害を受ける。
けれど、同じ被害を受けても、その傷と悲しみを
懸命にシェアし、支えあっていても………。
「同じ被害」でも、年代や体調やこころの状態や状況によっても、
微妙な差がやがては生まれてしまう。
「復興」の声に、ついていけない。
蹲ることしかできない。そんな場合もある。
そして、蹲る自分が周囲の足手まといになっているのではないか、
と心砕き、具合の悪さも、湧き上がってくる嗚咽にも蓋をして、
さらに蹲るしかないひともいる。
苦しむひとびとをさらに分断していくことが
「創造的復興」というものであるなら、
社会はどこに向かうのだろう。
いま、この時に乗じての「増税案」もまた。
この時代、この社会で最も大事なものは、
「より小さな声」であるのだが。
「力強い復興」は、その「より小さな声」を
巨大なパワーシェベルで、アスベストが泥に
混じる宙に舞い上がらせ、そして消していくのだ。