それが何であれ、「いろいろある」ということが民主主義の基本なのだと考える。
ひとつの社会、市でも町でも村でもいいので、ひとつの集合体を想像してみよう。
その社会に、ある年代しかいないとしたら、どうだろう。
たとえば三十代しかいない町。たとえば十代しかいない村。
たとえば八十代しかいない市。四十代だけの街、五十代しか住めない自治体というように。
すこやかな社会とは、「いろいろ」が、「いろいろのまま」、違いも含め、
違いが原因で排除されたり、優劣がつけられたりせずに、存在できる社会だと思う。
いまもって収束がつかない福島第一原発の今回の暴走を考えるとき、
「いろいろの論理」から目をそらし、一企業に「独占権」を与えた結果だとも考えられる。
国策として、「独占企業」のように位置付けられてきた電力行政は、「いろいろ」を排除し、その結果、市民が選択できない、危険極まりない、まさに「建屋」を作ってきたのだ。その危険性を隠蔽し、数々の事故さえふたをして、安全・安心・クリーンといった神話をつくり、メディアやアカデミズムを「動員」し、神話の補強をし続けてきた。
それらに異議を唱えるもの、わずかでも疑問をさしはさむものは、排除されつづけてきた。
彼らにしてみれば、異議あるものは、「使わない」、「掲載しない」、「出さない」という、一般は気づかない、見えない「規制」をすればいいのだから。
しかし、それらの安全神話の「建屋」は、今回の暴走で、本物の建屋とともに吹き飛んだ。
そうして現在、昨日のブログに書いように、福島の子どもたちが被曝暫定基準「20ミリシーベルト」(それも内部被曝は積算されない)というめちゃくちゃな暫定基準の中に「遺棄」されている。
子どもへの虐待防止を呼びかけている本体が、少子化対策を打ち出した政府が、「遺棄」という「いのち」への虐待を平然と、しかも暫定基準決定のプロセスも不透明なまますすめているのだ。なんと恐ろしいことか。
電力そのものをいろいろの中から選択し、市民が「買える」社会。そこにも「いろいろの論理」が働く社会を、とこころから願う。
小雨の東京 アースデイの初日に