2011年4月21日木曜日

4月21日

福島第一原発。原子炉建屋の状況についての報道が、また少しだけ増えた。
無人ロボットが撮影したものが公開されたせいだ。
このまま恒常的な恐怖と絶え間ないストレスを抱え、
すべての、それぞれのわたしたちは生きていかねばならないのか。
そうして、それらにもやがては「慣れていく」わたしたちなのか。
原発に慣らされ、この惨状を知りながら、今度はその恐怖にも慣らされていくのか。慣れこそ、もっとも恐ろしいものであるのに。

日々、新聞には日付けが入った被災者数が掲載されている。
亡くなったかたがたのあとには、行方不明のかたの数が載っている。
が、今回の大震災では、家族全員が行方不明の場合もあり、
行方不明の申告自体ができないご家族もおられるだろう。
「未曾有」を「みぞうゆう」と言い間違えたひとを
メディアが笑ったあの頃の、のどかさを思い出す。

そうして、原発である。
4月20日の朝日新聞朝刊の「声」欄(投書欄)には、
「横須賀の原子力艦は大丈夫か?」という投書が載っていた。
………東日本大震災の津波で、米海軍グアム基地の
保留施設が被害を受け、原子力潜水艦が一時港内を漂流し、
スクリュー損傷……が判明したニュースを受けての投書である。

「『運が悪かった』で済ませるか?」という見出しがついた投書は、
原発推進を支持していた自分を反省し、謝罪した孫正義ソフトバンク社長が
「自らの不明を反省」したことを評価をするという内容の投書である。
「反原発デモ なぜ報じないのか」という投書は、
東京高円寺で10日に行われた反原発の1万5千人デモを、
メディアが報じないことへの異議申し立ての投書である。
危険性を訴えるひとの声を、なぜメディアは無視するのか、を問いかけたものだ。
どれもが、わたしにはまっとうな、生活者のかけがえのない「声」に思える。

メディアには少なからぬ「シバリ」があることは知っている。
電力会社はメディアにとって、最高の「お客様」ではあるのだから。
年間の広告出広料と量を考えれば、たしかにそうだろう。
しかし、「いのち」の問題であるのだ。
第二次世界大戦中、「勝った・勝った」と、事実とは反する大本営発表をそのまま「垂れ流し」た日々に、
わたしはもう二度と戻りたくはない。失われたいのちは還ってはこないのだ。
「報道の自由・表現の自由」を日頃、標榜しているメディア、である。
ここで報道しないで、いつ報道する。
同時に、原発で働くひとも、メディアで働くひとも、まずは、ひとりの「ひと」ではないか。
わたしたちが接したいのは、「大本営発表」ではなく、21世紀の「大本営発表」をどうとらえ、どう検証したか、どこに疑問を抱いたか、という「ひとの声」であり、「ひとの暮らし」であり、「ひと視座」である。メディアには、そのミッションがあるはずだ。

それはないものねだり、であるのか? 
心あるメディアのひとびとが、「シバリ」のキツさに苦悩し、
自分の居場所を模索している。取材する車に、救援物資を積んで
走り回っているジャーナリストもいる。
避難所に寝泊りすることで、そこで暮らさざるを得ない被災者の日常を「体感」しようとしているひともいるのだ。

今日、入園式のある、被災地、気仙沼の幼稚園に、
近くのセンターで止まっていた絵本を届けることができた。
園舎も失い、学校の一室を借りて入園式を行うという。