2011年4月15日金曜日

4月15日

被災地で、避難所で、周囲の大人たちを手助けしながら
元気に振るまう子どもたちの姿が、メディアで次々に紹介されている。

食べものや水を配る子。避難所の掃除をする子。
お年寄りに手を貸す子……。子どもたちも頑張っている。
そして、子どもたちが見せる、輝くようなあの笑顔。
血縁であろうとなかろうと、そこに子どもがいるだけで、
明日の見えない闇の中に立ち竦む大人たちに、一瞬の元気や
安堵を贈ってくれる。それは事実だ。
子どもは確かに、わたしたち大人の、未来形の夢の形だ。
元気な子どもの姿に、被災地を離れて暮している(いつも後ろめたさを覚えるが)
わたしたち大人も、元気のお裾分けを贈られている。

しかし、と思う心配性のわたしがここにいる。

元気な子どもを、メディアはそんなに「評価」してはいけない
のではないだろうか、と。
子どもは評価されればされるほど、その評価に応えようとする。
もっと、もっと、もっと、と。

テレビのカメラの被写体になることは、子どもたちにとっては、
たぶん生まれてはじめての、刺激的な体験であるだろう。だから
より一層、子どもは応えようとする。もっと、もっと、もっと
元気に、もっと「頑張ろう」と。

思い出してみよう。あなたが、わたしが、子どもだった頃のことを。
周囲の大人から贈られる評価が、どれほど嬉しかったかを。
書き取りをするときも、絵を描くときも、掃除当番のときも、
ソフトボールをするときも、「よく頑張ったね」という大人の評価を
どこかで求めていた。それ自体を否定する気はないが、しかし……。
子どもは、子ども自身の人生を生きながら、大人の評価を得るために、
その人生の一部を(時にはすべてを)捧げることさえあることを、
わたしたち大人こそ忘れてはならない。
泣きたいときも、憂鬱なときも、悲しいときも、「いい子」であることを
評価されつづけた子どもは、もっと「いい子」でありつづけようとするだろう。
そうして、率直に自分に感情をだすことができなくなる。わたしにはそれが怖い。

オーストリアの精神分析医W・ライヒが提唱した「ある状態」に、
character armor「性格の鎧」というのがある。
親子関係の中で主に幼少期に形成されるものだとライヒは唱えたが、
わたしは親子関係の中に限らず、多くの子どもと大人の関係の中にも
それは潜むものだと考えている。
周囲の期待に応えられるように、習慣の中でつくり上げた仮りの性格が
いつの間にか、自分の性格になってしまう。
「元気な子」、「いい子」、「健気な子」、「よくお手伝いする子」
という評価が、子どもの心に「期待される自分像」として定着し、
やがてそれがその子の性格の「鎧」になる……。そして、自分の感情、
泣きたい、叫びたい、不機嫌でいたい、動きたくない、という
当たり前の感情や反応さえ、閉じ込めてしまう場合がある。

いつの間にか身につけた、あるいは身につけざるを得なかった日常の
習慣が、「性格化」することは避けたい、と、周囲に元気を振りまく
子どもに感謝しつつも、そんなに頑張ることはないよ、泣いていいんだよ、
といま伝えたいわたしがいる。
さらにメディアは次々に「善意」や「健気」をクローズアップして、
大切な何かを、いのちそのものにかかわる何かを隠している(意図的で
あろうと、無意識であろうと)のではないかといぶかってしまうわたしがいる。