………精神論という罠………
東日本大震災以来、精神、ともいうべきものが
幅をきかせている。
みんなでひとつになれば、なんとかなる………。
日本の力を信じている………。
確かに、そういう側面も大事かもしれないけれど、
まずは、被災したひとたちに、どれだけ早く、潤沢に
医薬品や日用品を届けるかでしょう。
ばらつきはないか? お風呂は? 仮設住宅は?
暴走した原発のその後は? 充分な情報開示は? 放射能は?
第一次産業、農業や漁業に従事されるかたの明日は?
へそ曲がりのわたしは、首を傾げる。
「頑張れ」、と連呼されなくとも、これ以上頑張れないほど、
被災地のひとたちは頑張っているではないか。
むしろわたしは、「そんなに頑張らなくてもいいよ」と伝えたい。
頑張りすぎてはいけないのだ、と。
団結を強調する傾向も、みんなで我慢しよう風な公共CMも、
なんとも落ち着かない。
欠如と欠乏の中で、それでも柔らかな団結を求め、
実行しているのは被災地のひとびとである。
誰に言われなくとも、内発的に。
被災地に向けてではないにせよ、我慢を強調する流れは、
わたしには「欲しがりません、勝つまでは」に聞こえる。
第二次世界大戦時の、スローガンと重なるのだ。
我慢を美徳とされ、我慢を賞賛され、我慢を実行し、
そうして市民は死んでいったのだ。
海外のメディアが被災地のひとたちの「我慢強さ」を
たたえたという報道が震災直後、日本のメディアでも
大きくとりあげられている。
多くの犠牲者をだし、家族の安否も定かではない状況で、
自ら深い傷を負い、必要な手当も受けられず、
厳寒の中で暖もとれない状況にいるひと。
そのひとたちが必死に、それでも隣人を慮って生きる姿は、
たしかに感動する。頭が下がる。
しかし、それを、「美談」にするのは危険ではないか。
彼らの多くは、喜んで「我慢」をしているのではなく、
「我慢」を強いられているひとたちである。自らが
「我慢」することで、より過酷な状況にいる隣人たちに
手を差し伸べようとしているひとたちである。
そうすることで、なんとか今日を明日につないでいこうとしているのだ。
公共広告機構に引用されている、金子 みすゞや宮澤章二は、
果たしてそれを望んだろうか。
政治や電力会社の、後手後手に回る政策や、
情報開示にはほど遠い現実が生み出す混乱まで、
わたしは「我慢」したくはない。
精神論を多用し、「民」を支配してきたのは、誰なのか。
そうして、精神論を利用してきたのは、誰なのか。