2011年6月18日土曜日

6月18日

今日も雨。
少々疲れている。
次に起きるかもしれない諸々を想定して(「想定外」なんて言いたくない)、
いますべきこと、明日に回してもいいこと、来週頭にすべきこと、連絡事項などをリストアップして………。とにかく、後手に回らないように、計画倒れにならないように、と自分と約束してやってきているのだが……。
この疲れは、身体的なものというより、心理的なそれのほうが強いのかもしれない。
東日本大震災、そして原発暴走から100日。
今日は港区の男女共同参画社会の講演が。
みな、不安であるのだ。みな、何かしたいと思っているのだ。実際、果敢に
何かに取り組んでいるひとも多い。何かに取り組めば、必ず目の前に立ちはだかる壁を見つけ、しゃがみこみたい気持ちを苦々しく味わうこともある。
何もしないことのほうが楽であり、同時に苦しい時代でもある。
それでも、なんとしてでも、と子どもを護ろうとしている女性たちも会場にはおられた。
ひとはみな、未完の存在だ。
未完の人間という存在が完璧なものを作れるはずはない。
そういった意味で、ひとの中に、ひとが作るものに、「絶対」などという
言葉を使ってはいけないのだ。
ひとがかかわるものに、そもそも「絶対」などないのだ。
………絶対を言うひとほど、わたしをうんざりさせるものはない………。
今は亡きF・サガンの小説の中に、そんなフレーズがあった記憶がある。
 そうなのだ。「絶対」は、絶対ないのだ。絶対を使えるのは、こういった場合だけだ。
 3月11日から繰り返された、山ほどの「絶対」という約束のほとんどは破られ、濡れそぼち、路上に置き去りにされたまま、だ。
ようやく日本赤十字社と中央共同募金会が、東日本大震災に国内外から寄せられた義捐金の第二次配分を実行した。
遅い。すべてが遅すぎる。
亡くなった先輩ジャーナリストがよく紹介されていたエピソードに
次のようなものがある。
………あなたはジャーナリストだ。その、あなたは戦場にいる。
その、あなたの前で、爆撃がはじまる。
銃弾をくぐるようにして、ひとりの子どもが裸足で逃げてくる。
あなたが手を差し伸べれば助かるかもしれない。
あと三十メートル、二十メートル。
そのとき、あなたはどうするか!
助けられるかどうかはわからかないが、その子に手を差し伸べるか。
手を差し伸べたら、あなたは諦めるしかない。写真を撮ることを。
手を伸ばすことを諦めて、あなたはカメラにその子をおさめるか。
どちらかひとつしかない崖っぷちで、あなたはどちらを選ぶか。
写真を撮れば、あなたはそれを世界中に配信し、この悲惨な戦争をとめる
きっかけを作ることができるかもしれない。そうして、結果的に何万もの
人々を救うことができるかもしれない。ヴェトナムの戦場で、カメラを構え、記事を
書いたジャーナリストのように。
この問いは、実際、アメリカの大学のジャーナリズム科の講義で行われたものらしい。
ひとりを助けるか。ひとりを棄てて、大勢を助けるために、カメラに収めるか。
それはそのまま、自分のミッションを、どこに置くかという問いでもあるだろう。 
職業人としての自分と、ひとりの人間である自分と。
わたしはやはり目の前の子どもに手を伸ばすだろう。たぶん、それしかできないに違いない。
なぜか、亡き先輩ジャーナリストから聞いた、このエピソードが頭の中でぐるぐる回る夜。
今夜は少し眠りたい。