2011年6月23日木曜日

6月23日

哲学者、高橋哲哉の『国家と犠牲』(NHKブックス)を読み直している。
まさにわたしたちが直面している「いま」と重なる状況が、そこには描かれている。
以前から高橋さんの書かれるものを愛読してきた。

以前このブログでもご紹介した、5月に出版された週刊朝日緊急増刊『朝日ジャーナル』「原発と人間」にも
高橋哲哉さんは「原発という犠牲のシステム」というタイトルで寄稿されている。

………山林と耕地と牧草地がうねるように連なり、
ところどころで名産の「飯舘牛」がのんびり草を食んでいる。
放射能汚染を知らずにこの村に来たら、
なぜ六千人の全村民がこの美しい村から出ていかなければならなのか、全く理解できないであろう。
原発とは何の関係もないこの地で、地道に農業や牧畜業を営んできた自分たちが、
なぜ突然、村を出ていかなくてはならないのか………。

飯舘村のひとびとの97パーセントが、
自分たちの人生の日々のほとんどを重ね、愛してきた村をあとにした昨日、
高橋さんの文章をもう一度読んだ。高橋哲哉さんご自身、福島で生まれ育ったかただ。

………少なくとも言えるのは、原発が犠牲のシステムである、ということである。
(略)犠牲のシステムでは、或る者(たち)の利益が、
ほかのもの(たち)の生活(生命、健康、日常、財産、尊厳、希望等々)を犠牲にして生み出され、維持される。
犠牲にする者の利益は、犠牲にされるものの犠牲なしには生み出されないし、維持されない。
この犠牲は、通常、隠されているか。共同体(国家、国民、社会、企業等々)にとっての
「尊い犠牲」として美化され、正当化されている。
そして、隠蔽や正当化が困難になり、犠牲の不当性が告発されても、
犠牲にする者(たち)は自らの責任を否認し、責任から逃亡する。

犠牲にする者の「者」は漢字で、されるものの「もの」は平仮名で、記されている。
高橋さん独特の静謐なる憤りと告発の文章が心に響く。
原稿の最後に高橋さんは、20世紀はじめにデンマークの陸軍大将だったフィリップ・ホルムの提案を紹介されている。
もし、各国に次のような法律があれば、地上から戦争をなくせるとホルムが考えた提案である。
………戦争が開始されたら10時間以内に、次の順序で最前線に一兵卒として送り込まれる。
第一、国家元首。第二、その男性親族。第三、総理大臣、国務大臣、各省時間。
第四、国会議員、ただし戦争に反対した議員は除く。
第五、戦争に反対しなかった宗教界の指導者………。

このあとに、高橋さんは次のように続けておられる。

………戦争は、国会の権力者たちがおのれの利益のために、国民を犠牲にして起こすものだとホルムは考えた。
だから、まっさきに権力者たちが犠牲になるシステムをつくれば、戦争を起こすことができななるだろう、というわけだ。

原発も相似形の犠牲のシステムを維持してきた。

………問題は、しかし、誰が犠牲になるのか、ということではない。
犠牲のシステムそのものをやめること、これが肝心だ
………という言葉で原稿は結ばれている。

高橋哲哉さんには、クレヨンハウスのモーニングスタディーズ、8月13日の講師をお引き受けいただいた。