2011年6月21日火曜日

6月21日

わたしたちが、たとえば友人や知人と約束をしたことを違え(たがえ)たとき、
自己嫌悪にとらわれる。
自分を責めるはずだ。なぜ約束を守れなかったのだろう、と。
当然、謝罪をする。
そうして、なぜ違えてしまったのかを自分に問い、
被害を受けた相手が納得するまで話をするだろう。
相手が一応納得したとしても、そのひとの内に生まれた
「あのひとって、そういうひとなんだ」という不信感を、どうやったら払拭できるか、
ずっと考え悩むはずだ。自分がしてしまったことを悔やみつつ。
そうして、なんとかして汚名を挽回しようとし、同時に、
今後はこういった自己嫌悪に陥らないでする自分をつくっていこうと、自身と約束をするはずだ。
それが、ひとというものだろう。

そこで、菅 直人首相である。

一時的にせよ、浜岡原発を止めたことは評価する。
自然エネルギーへの転換を示唆したことも、
電力会社が独占してきた発電と送電の分離に触れたことも、評価する。
それらと昨今、永田町に吹き荒れた「菅おろし」旋風は、全く別のストーリーではなかったはずだ。
しかし、ここにきて、どうした! 菅さん。
現在停止中の原発について、「安全対策が適切に整ったので、再稼動すべき」とは、一体、どういうことだ。
どんな神経をしているのだろう、と疑わざるを得ない。
福島第一原発では、作業に従事するひとたちが、
被曝の恐怖と闘いながら、この上なく劣悪な環境の中で働いている。
住民たちは、今後現れるかもしれない子どもたちの健康被害に苦悩の声をあげている。
期待をかけたアメリカ製の高度汚染水浄化装置は、作動してから僅か五時間でダウンしてしまった。
東電は相変わらず、腹立たしいほど淡々と想定外を繰り返す。
汚染水が溢れ出る(実際には、すでに溢れているのではないか)まで秒読み段階となったいま、
この瞬間のわたしたちの苦しみと恐怖と不安と不信を前にしながら、
「再稼動」などと、どうして言えるのか。ひととしての痛みはないのか!
全く理解できない。

「菅おろし」の裏には何かがあるはずだ。だから与したくないと考えていたが、
あなたは市民の苦しみなど全く考えない、非情のひとだったのか。
あまりにも無責任すぎる。
福島の大人たちが、かけがえのない子どもや孫を思って流す涙は、あなたには、伝わらないのか。
巷間伝えられるように、あなたはその場その場で思いつきを口にして、すぐに忘れることができるひとなのか。
なにが「安全宣言」だ。酷すぎる。