2011年6月28日火曜日

6月28日

暑い一日だった。
小学生のときに見学に訪れて以来、国会議事堂はこれで何度目だろう。
今朝もバスで小学生が見学に訪れている。

朝から自民党の河野太郎さんと「原発」についての対談をしてきた。
ご存知のように河野さんは自民党で唯ひとり、一貫して「脱原発」を主張されている。
自らを「異端」と呼びながら。
いわゆる「核のゴミ」、高レベル放射性廃棄物をいかに処分するのか全くめどが立っていない状況で、
原発は存在してはならないというのが、彼の主張である。
対談にあたり、初当選(96年)以来の、原発に関する彼のインタビュー記事や、
話題の公式ブログ「ごまめも歯ぎしり」に改めて目を通した。

2000年の『論座』11月号では、彼は次のように述べている。
………大惨事が起きたり、生活を直撃するほころびが出て、
「もうダメだ」ということになるまで変わらないかもしれない。
そのとき、十何年前になんで別の選択をしなかったのか、
なぜこんなばかな道を選んだのか、ということが問われるでしょう……。

詳しくは、カタログハウス『通販生活』秋・冬号に連載中の『深呼吸対談』を。
あれから11年。まさに「大惨事」が起きてしまった。
そうして、その只中にわたしたちはいま居る! のだ。
昨日27日にも、福島第一原発では、循環注水冷却にまたもやトラブルが生じて、一時停止した。
そうして、こうしている間にも、行く先のない「核のゴミ」は生産され続けているのだ。
以前にこの欄で紹介した映画『100000万年後の安全』、そのままに。

憲法の解釈などや基地問題などでは、河野さんとわたしは立ち位置は違うところもあると思う。
が、「脱原発」、再生可能エネルギーへの社会への転換においては、同意見である。
起承転結の「結」の部分が曖昧でも、小説は書き始められる。
しかし、「核のゴミ」の行き場もないまま、「起承」を闇雲に推進し、
「転」と「結」で、わたしたちが暮す社会は、そしてわたしたち自身は苦悩の立ち往生をしているのだ。

文芸評論家川村湊さんの『福島原発人災記 安全神話を騙った人々』(現代書館)を読み終える。
リアルタイムの貴重なジャーナルである。