2011年6月8日水曜日

6月8日

一日中、はっきりしない天気だった。
ふっと思い出したように、淡い青空が見えるときもあったが、
小雨も散らついた。蒸し暑い。すっきりしない。
ただでさえ心晴れない日々が続いているのに。

被災地の子どもたちの中には、今もって小さなパック入りの牛乳1本と
パン一個を、お昼の給食として摂るしかない子どもがいるようだ。
「おなかすくけど、しょうがないや。がまん、がまん」
子どもの血肉は、「いま」作られるものであるのに。
放射能を警戒して、締め切った教室で学ぶ子どもたち。
外を自由に走り回れないことが、どれほどのストレスになるだろう。
遊びを通して、子どもは成長するのに。

置き去りにされる子どもたち。

選挙で反原発を主張する政党が大きく躍進した、この春のドイツ。
昨年、原発の運転延長を決めたにもかかわらず、脱原発へと方針を転換して、
2022年までに原発全廃! が閣議決定された。
むろん福島第一原発の暴走を受けてのことである。
民主主義が機能する、というのは、こういうことを言うのだろう。
もともと原発推進派の政権であっても、選挙の結果(市民の意志)で、
政府はこんな風に動かざるを得ないのだ。

一方、ドイツ政府に歴史的な方向転換を迫った原発暴走のおおもとの国では、
大連立だ、大増税だと、政治家は走り回っている。
まるで、大震災も原発暴走も
こか遠くの、ほかの国のことであるかのように。
被災者などひとりもいないかのように。

この、痛みのなさはどこからくるのだろう。
この、想像力の欠如は一体、何なのだろう。
ひとと他の動物を分けるもののひとつが、想像力ではなかったか。
その想像力を眠らせ、ひたすら政争に明け暮れる大方の政治家に一票を投じたのは……?

国民はその民度に見合った政治しか持てない、という言葉を噛み締める夕暮れ。
いつもの道の垣根に、淡い紅色の紫陽花が咲いている。