2011年6月3日金曜日

6月3日

「哲学」と漢字で書くと、やたら難解なものを想像しがちだ。

けれど、今回の大震災、さらにそれに続く復興の遅れや、収束の見えない福島第一原発の現実を前にして、なにが「わたし」たちに足りなかったと考えるとき、ふと心に浮かんだのが「哲学」、あるいはカタカナの「テツガク」という文字とそれがイメージさせるものだ。

10数年前に会った、ネイティブアメリカンの、女性教育者ダイアン・モントーヤさんの言葉が甦る。以前にも一度ご紹介した記憶があるが。

……わたしたちは、祖父母やそのまた祖父母から言われてきました。
何かを選ばなければならないとき、七世代さきの子どもたちのことを考えなさい。

リアルタイムの現在、それがどんなに便利に思えても、七世代先の子どもたちが扱いに困るようなものを残してはいけない、と。
たぶん、哲学とは、こういう視点であり姿勢を育むものであるだろう。
わたしたちは七世代どころか、目の前にいる次世代の子どもたちに負の遺産を押し付けようとしている。

原発を「トイレのないマンション」と称するひとがいる。
その意味するところはわからないではないが、そんな程度のものではない。比喩そのものが,原発の危険性を過小評価していると言わざるを得ない。
トレイのないマンションに溢れた「排泄物」を片付けても、被曝はしない。細胞を傷つけはしない。胎児や赤ちゃんの甲状腺を直撃はしない。

しかし核の「排泄物」、核のゴミは、片付けたくとも片付けることのできないものであり、誰もその処理について答えすら持っていない。
そもそも処理できないものを作ってしまったことが、わたしたちがいかに「七世代先の子ども」のことを切り捨ててきたのかの逆証でもあるだろう。
行く当てのない、使用済み核燃料をためておくプールの存在がまた、さらなる暴走のこのうえなく危険な火種になることは、福島第一原発の例を見るまでもない。

そして、「FUKUSHIMA」に世界中が注目して固唾を飲んでいるいまも、
「核のゴミ」はつくられつづけているのだ。この国の原発で。